第1277回 教行信証総序 その二

 平成29年 7月20日~

親鸞聖人がお書き頂いた「教行信証」その総序の岡亮二 先生の口語訳を
(教育新潮社 教行信証口述50講

2回に渡ってご紹介します。前回につづき 後半です。

このことによっても知られるように 「南無阿弥陀仏」 の 円融至徳の嘉号は、
悪を転じて徳を成す正智なのであり、弥陀の大悲心である難信金剛の 「信楽」 は 
疑いを除き証を獲しめる 真理であると言わねばなりません。凡愚は ただ念仏を称え
阿弥陀仏の教えの真実を聞くことによって、かの浄土に生まれ、証を得さしめられる。


 そうだとすれば、愚かな人々にとって これほど修しやすい真実の教えはなく、また証に
至るための、これほどの直道もありません。
さらにいえば、釈尊の説かれた一代の説法、八万四千の教えの中で この弥陀の功徳の
法門に 比較できるほど勝れた法門は、何一つないのです。

 私たちの、この穢れと苦悩と悲しみに満ち満ちた、娑婆国土を厭い、浄土を願い求めて
一心に仏道を修している人々よ。しかも かえって その仏道の、自ら行じている
その行に迷い、信ずべき信に 惑いを感じている仏道者よ。

愚鈍にして知識がすくなく、悪業ばかり重なり障り多き人生を 歩んでいる者たちよ。
この私たちのために釈尊が、阿弥陀仏の浄土真実の法があると教えられているのです。


 それ故に、ことにこの如来の発遣を仰ぎ、直ちに 仏果に至りうるという この最勝の
仏道に必ず帰依すべきなのです。

そしてもしこの仏道を歩もうとする者は、弥陀より廻向された南無阿弥陀仏の、称名念仏
一行に 生かされるべきであり 弥陀の大悲心である 信楽に、ただひたすら信順すべき
なのです。

  一体、私たちはいままで、いかほどの時を流転しつづけてきたのでしょうか。
いまこの時まで、阿弥陀仏の弘誓に値遇することがなく 億劫の間も、真実の浄信を

獲ることができなかったのです。

 ああしかし、その本願に いま出遇うことができました。それを可能ならしめたのは、
今までのこの無限の時間を、阿弥陀仏が一瞬の休む間もなくこの私のために、

大悲の光明を照らしつづけてくれたからです。
私にとって弥陀の行信を 獲ることは、偶然としか 言いようはありません。

けれども無限に 照らしつづけられた 大悲の光明が なかったならば、私における
獲信はありえませんでした。

 このことよりみても、獲信において、はるかに遠くからの宿縁を慶ぶべきです。
もしまたこの度の生においても、私の心が本願を疑う心で覆われていたとすれば、

いままでと同様に再び、昿劫を流転して行かねばならないのですから。
阿弥陀仏の「念仏せよ。汝を救う」とのたまわれている、摂取不捨の誓願の誠さよ。

この超世希有の正法を、どこまでも聞思すべきであり、絶対に躊躇すべきではありません。

 ここにおいて 愚禿釈の親鸞は、まさに慶ばしいことに、阿弥陀仏の法を伝えた、
インド・中国・日本の諸々の聖典と、その教えを説かれた諸師に、遇い難くして今

遇うことができたのです。 
聞き難い その法の 真実を、私の全人格の場で、今已に聞くことができたのです。
真宗の 「教行証」 を敬信することによって、はじめて如来の恩徳の、無限の深さを

知ることができました。

 そこで私は かく聞くことができた 阿弥陀仏の教法と。
その教えによって 獲た慶びの心を しばらく語ってみたく思います。


  教行信証総序 口語訳を 前後 2回で ご紹介しました。


          


           私も一言(伝言板)