第1275回 人身受け難し

平成29年 7月6日~

 戦前生まれのご住職の話をききました。
11人兄弟の一番下で、親に育てられたというより、姉たちに育てられた
記憶が多いと。
授業参観も、一番上のお姉ちゃんが来てくれていたことを思い出すと。

周りの友達もみんな兄弟姉妹が多く、何の疑問を持つことはなかったが、
この頃思うのは、もし現代だったら、自分は、この世に生まれることは出来
なかったのではないかと。
現代は 兄弟が一人二人が多くなり、とても11番目の自分は、この世に
生まれてくるチャンスはなかっただろうと、つくづく考えるとお話くださいました。

 気づいたらこの世に生まれており、無事成長して、いま生きていることを、
当たり前のように思っていますが、この世に生まれることも、そして、無事成長して、
この歳まで生きておられたことも、実は大変有り難いことだと、味わうことが
出来るか、出来ないかで 人生は大きく違ってくるようです。

過去帳を見ていますと、昭和30年代までは、ゼロ歳、一歳、二歳と、
沢山の子どもさんが、成長することなく亡くなっています。

 礼讃文 三帰依文に、人身受け難し、今すでに受く。とあります。
それに続いて、仏法聞き難し、今すでに聞く。


この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自から僧に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にももう遇うこと難し。
われ今見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。 とあります。



人間として生まれているので、当たり前になっています。
人間に生まれることは、なかなか難しいことなのに、感動をしていません。
その上、仏さまの教えに、なかなか遇えないのに、すでに
遇え、仏さまのお話をきくことが出来ていることも、喜んでいません。

生まれたことも、仏法に遇えたことも、私が努力した結果ではなく、
これまでの、多くの方々のはたらきのお陰によって、ご縁をいただいたの

だろうと、思います。

 教行信証の最初に、親鸞聖人は、
 ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、
まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの
因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、
もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。

如来の本願のなんとまことであることか。摂め取ってお捨てにならない
という真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。
この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。

と、その喜びを書き残していただいています。

 当たり前になっていますが、こして、人間にうまれ、そして、
成長し、今日まで生きておられ、そればかりではなく、仏さまの教えに
遇わせていただき、喜び多い,生き甲斐ある人生を送らせて
いただいていることを、南無阿弥陀仏のお念仏を口に
慶ばせていただきたいものです。

 この教えに遇うことが出来なければ、こんな平穏な喜び多い毎日を、
送ることは出来なかったことでしょう。
これからも、いのちある限り、そしてお浄土に生まれても、南無阿弥陀仏を
口にし、南無阿弥陀仏を耳にする豊かな毎日を送らせていただきたいものです。


          


           私も一言(伝言板)