第1272回 仏教の「救い」 とは  ②

 平成29年 6月15日~

 お医者さんで 仏教を教えておいでの 田畑正久先生が
次のようにお話をされています。


 大峯顕先生の講義録を読んでいて、次のような言葉を知りました。
ドイツの哲学者フィヒテ(1762-1814)の言葉だそうです。

「死というものは、どこかにあるのではなくて、真に生きることの
できない人に対してのみある」。
いつも明日こそ明日こそ(明日が目的で、今日は明日のための手段・道具の
ように処する)と言って、今を生ききれていない人には死があり、今日を精一杯
生きている人には死はないのだというのです。


 今を生ききるということを、清沢満之先生は、「天命に安んじて人事を尽くす」
と言われました。

今日、自分に与えられた場を引き受けて完全燃焼する。そういう人には死は
問題ではなくなるのです。
「死が人を殺すのではなく、死せる人間、生きることのできない人間が、死を
作り出すのである」ともフィヒテは言っています。


 精一杯生きたといっても、そこにお念仏がないとだめなのです。
念仏が天命に安んじる世界に導いてくれて、結果として「精一杯生きる」
ことに導かれるのです。私が思っているだけでなく、どうか仏さまご照覧あれ、
とお念仏で「おまかせ」できたら死んでいけるんだということです。

 患者さんの中には「健康で長生き」と言っている人がいます。
あの人より長生きしたら勝ちだなどと考えるのは煩悩です。私はつい嫌味で
「あなたは健康で長生きして何がしたいのですか」と聞くのです。
そうすると「いや別に何もないのですけど」とか「いま探しています」などと
お答えになります。

 このように、お念仏によって時間が変わるというのは、私たちにとっての
救いではないでしょうか。

 お念仏の世界を生きるようになると、感謝の世界が与えられます。

私がここにいるのは当たり前ではなくて、多くの因と縁によって生かされて
いる世界が、仏の智慧によって気づかされてくるのです。

 就学前の男の子が外で遊び回って帰ってきて、疲れで「足が痛いー」と
叫んでいる。お母さんはおそらく仏教にご縁がある方なのでしょう、
子どもの足をなでてあげながら、「足さんありがとうね、きょう一日
坊やを支えてくれて」と足に話しかけました。

さらに「もうちょっとすると寝んねするからそれまでもう少し坊やを
支えてあげてね」と繰り返していたそうです。
しぱらくすると男の子が自分から、「足さんありがとう」と言って、それから
足が痛いと訴えることがなくなったといいます。

 高齢の患者さんたちは口々に、「先生、年とっても何も良いことはないね。
耳は遠くなる、目はうすくなる、腰は痛くなる」などと言っています。
そこで「今まで八十年間も支えてもらった身体に、お礼を言ったことが
ありますか」と尋ねますと、そんなこと考えたこともなかったとおっしゃいます。
若い時のように無理がきかなくなってきたら、いたわりながら使って
ゆかなければいけないなと思えてくるでしょう。

無理やりに感謝するのではなく、ここまでよく支えてくれた、
そうとしか思えないではないかと仏の智慧の視点に転じてくるならば、
現実の受けとめ方が変わってくるのです。

      在家仏教 2016年 8月号  より


          


           私も一言(伝言板)