第1244回 信心の利益

 平成28年12月 1日~

 釈尊が、この世界に生まれ、仏陀になられた その本意は、
私たちに直接、阿弥陀仏の本願を、弥陀の名号のおいわれを
お説きになるためであります。
私たちに、もっとも近づいて、仏になるべき因を めぐむためであります。

私たちは、この釈尊のお言葉に、耳を傾けることによってのみ.まことの信心.
救われる喜びが、いただかれるのです。              

ところが、み教を耳にしながらも、少しも信じることができず、反感さえ
おぼえたこともありました。
希望どおりにならない人生を 経験していく中で、お聴聞を繰り返すうちに、
いつのまにか、ほのぼのとした春の日射しにも似た「 よろこび 」を感じ.
み教を疑えなく なってきたのです。

このことは、すでに、如来の真実のお心が、私のかたくなな 岩のように難い心を
打ち砕いて現われ出た、信心の姿なのです.
もう二度と 如来のお救いを 疑うことのできなくなったこの私は、ただ如来の
「 かならず 救う 」の仰せに安心しきって、ふたごころなく、はからわず、
お慈悲のありがたさを ひたすら喜ぶより ほかない身となったのです。


その如来の真実のお心が 私にとどけられた最初を「一念 」と
聖人は「大無量寿経」によって示されています。
春は 何月何日何時より訪れたかわからぬけれども.野辺に開いた一輪の花に、
青空に舞う ひばりの声に、春の訪れを信じて疑わないように「一念 」の時が.
いつであったかをあれこれと、はからう心をやめにして.ただ口に 現われる
念仏の声により、如来に抱かれているという喜びの心を もつことを、
聖人は願われたのであります。


聖人は、「一念 」というのは、われらの信心は 二心がないから 一念といい.
これを一心と名づける.とおっしゃっています。
この二心のない信心のところに、現実の世界において、さらに永遠なる
お浄土の世界において、如来よりいろいろの利益を賜ることをお述べになる
わけであります。

聖人はこれを「 現実の世界において 無量の徳をいただく 」とか
「 現実の世界では、かならず 十種の利益を 得させていただく 」とか
いわれているのであります。   
           (三木照國著・正信偈入門・本願寺出版社を参考)



         


           私も一言(伝言板)