第1235回 目覚まし

平成28年 9月29日~

こんな話を聞きました。
熊本の一部の地域では、お通夜のお包に「御香典」「御仏前」と
書くのではなく、「目覚し(めさまし)」と書いて持参するということです。

  通夜は、一晩中、線香やロウソクを絶やさないようにする風習もあり、
昔はお金を包むだけではなく、米や食べ物に「目覚し」と書いて持参していた
ということです。

目覚とは、遺族の方々が寝ずに目を覚ましておくために
どうぞ、お食べください、お使いくださいという意味があったようです。

 また、この目覚ましには、別の意味もあるようです。
愛する大切な方にもう一度どうか「目覚めて欲しい」という
切なる思いを表したのではないかとも言われます。

 ところが、世間の受け取り方と違って、お念仏の人は暗い淋しい
世界に行かれたのではなく、お浄土へ往生され仏となられたたという
浄土真宗の場合には、亡くなった方に目を覚ましてほしいというのではなく、
愛する方の死を御縁にして、どうか「仏法に目覚めてほしい」

「お念仏に遇い、信心を獲てほしい」という意味を表しているのではないか
というのです。


お葬式の時に、浄土真宗本願寺派では、節をつけて拝読するご和讚があります。

  本願力に あひぬれば むなしくすぐる ひとぞなき

   功徳の宝海 満ち満ちて 煩悩の濁水へだてなし

 これは、生きている私たちが 亡くなった人へ何かを伝えようと
するのではなく、亡くなった方々から 生きている私たちへの 
メッセージであると味わえます。


どうか、お念仏に遇ってほしい、そうすれば虚しい人生ではなくなりますよ。
もし、教えに遇うことができなければ、辛い苦しい人生で、また
苦しみの世界へと帰って行かねばなりませんよ。

お念仏の人生を全うされ、お浄土へ往生された方、仏となった方が
大切な身内や参列者に、繰り返し繰り返し呼びかけておられる言葉と
聞こえてきます。

「貴方も必ず死を迎える。今、充実した喜び多い人生ですか。
  いのち終わったらお浄土へ生まれておいで」と亡き方が、私たちに
呼びかけておられるのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
その呼びかけに、残された者がちゃんと受け止めて
「目覚める」ことを望んでいられるのではないでしょうか。

阿弥陀如来は、仏となられた、私たちの大切な方といっしょに
どうか、お念仏して豊かな人生を受け取って欲しい、喜び多い
人生を送って欲しいと、呼びかけておられるのです。

 しかし、残念ながら私たちが、その思いに気づかずにいます。
如来様が私をいつも思い、呼びかけて下さっていることに、
大切な方を亡くす、悲しいご縁を通して、はっきりと気づいて欲しいと。

仏法に出会うことが、人生にはもっとも大事なことだと、気づき
味わってきた人々が、この目覚という言葉を受け継いできたのだろうと
思います。

どうか、南無阿弥陀仏の呼びかけに、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
返事をして、応えていく、充実した喜び多い人生を受け取りたいものです。


         


           私も一言(伝言板)