第1229回 自力ということ(聞法のいとなみ)

  平成28年 8月18日~

「自力」と聞いて、どのような意味があるとお考えになるでしょうか。
 例えば、「大事業を自力で成し遂げる」という場合、「自力」は、
「自らの力」「その人の力」という意味ですから、その人の行いで、

成し遂げる」ということを表しています、

 それでは、「自力で、さとりを開く」という場合は、どうでしょうか。
それは「自らの力を信じ、それを頼りにして、さとりを開こうとする」
というふうに考えることができますから、
「自力」は、「自らの力を頼りにする」ということを表しています。

 そうしますと、日常的に使っている「自力」は、「その人の行い」
という意味であり、仏教でいわれる「自力」は、「自らの力を頼りにする」
という意味ですから、「自力」と一口にいっても、その定義が異なって
いるでしょう。

また浄土真宗では、「自力」に対して「他力」ということを説いていますが、
この場合の「他力」といのは、「その人の行い」に対する「他人の行い」
ということではなく、「自らの力を頼りにする」ということに対して、
「阿弥陀仏の働き(仏の行い)を指しているのです。

 ところで、時折、「他力で救われるのだから、何もしなくてもいい」と
いうふうなことをおっしゃる方がおられます。
もし、「何もしなくてもいい」ということなら、お仏壇の前に座って、
勤行(おつとめ)することも、ご法座に出かけて、ご法話を聞くことも、
すべて無意味であるということになってしまうでしょう。

 この考え方の大きな問題は、「自力」の意味と混同して理解している
ところにあります。

 浄土真宗では、「自力は無功である」として、「他力」ということを
説いていますが、その場合、「(阿弥陀仏のはたらきを疑って)
自らの力を頼りにする」ということは否定しても、「その人の行い」
までも、無意味であるといっているわけではありません。

毎日の生活のいとなみも、お仏壇の前で勤行することも、ご法話を聞くことも、
すべてが[その人の行い]です。

「自力は無功である」というのは、「阿弥陀仏のはたらき(他力)ではなく、
自らの力を頼りにして(自力)さとりを求めても、それは無意味である」と
いうことを表しているのです。

例えば、勤行するという行いを「頼りにして」さとりを開こうとすることや、
ご法話を聞くという行いを「頼りにして」信心を得ようとする

ことであるのです。

このように、「私たちの行い」そのものが否定されているわけでは
ないのですから、進んで、阿弥陀仏のはたらきのうちにあることを聞いて、
人生を歩んで行かなければならないということでしょう。

  なるほど浄土真宗 佐々木義英師 本願寺出版社


         


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