聞くということ
(願いに応える人生)

浄土真宗で、教えを受ける、お念仏の生活をするということについて、いろいろな面から味わうことができますが、私は、一口にいって、喜びであると思うのであります。

喜びといっても、単純な喜びでないことは、もちろんでありますが、この世に生きております限り、感激も何もないということはありませんので、やはり喜びとして味わわせていただくことが根本ではないだろうか、と思うのです。 

 ふつう私たちは、何か楽しいことがあった時、うれしいことがあった時に、喜びという言葉を使います。

応援しております関取が、勝ち星をあげた、優勝をしたということも、喜びであります。
あるいは、自分の子供が望む学校に入った、運動会で非常に速く走って成績がよかったということも、私たちの喜びでありましょう。

しかし、お念仏の生活をする喜びは、このような単純に喜んでいるような喜びとは、ちょっとわけが違うように思います。

 いま申しましたような喜び、あるいは、職場の中で自ら努力をして成果をあげた、自分の属する会社が他の会社と比べてよい成績をあげたということは、確かに喜びには違いありませんが、どうも、それは、自分だけの喜び、あるいは自分の家族だけの喜び、自分の会社だけの喜びという面のあることも、忘れてはならないと思うのであります。

その喜びの影には、勝負に敗れて泣いている力士がいる、運動会に負けて悲しんでいる友達があるかもしれない、会社が競争に負けて倒産し困っていらっしゃる社員の方があるかもしれないのです。

 したがって、いま申しているような喜びは、本当の喜びというよりも、いまのことばで申しますと、欲望の満足、エゴイズムの満足といったような喜びではないでしょうか。

そのような喜びは、いくつ積み上げても、必ず崩れていくものであります。

また、崩れないにしても、その影には、多くの人が悲しんでいるということが伴った喜びであります。

 これを、個人のことではなくて、広く国家について考えてみましても、現在、私たちの国、日本は、諸外国に比べまして経済的にかなり恵まれた状態にあり、それを私たちは、しばしば誇りに思っておりますけれども、その影に、東南アジア、あるいは遠く地球のどこかで、非常に困っている国もあるのでありまして、そういうことも忘れてはなりません。 


 浄土真宗の喜びは、このような喜びではないのであります。
真実の教えに遇った喜び、真実を聞かせていただいた喜びでなければならないと思います。

そして、それは、私が喜んだからといって、他の人が悲しむといったマイナスが裏側についた喜びではなくて、私が喜ばしていただくことを通じて、多くの方が一緒に喜んでいただくことのできる喜びであると思うのであります。

それは、まさに、み仏の真実に出遇った喜びであります。

 では、その真実に遇うとは、どういうことでありましょうか。

それは、み仏の教えを聞かせていただくところに成立するのであり、それをおいてほかにはありません。

私たちの宗門で、聞法、聴聞と、いろんなことばを使っておりますが、すべて、真実の教えをお聞かせいただくということでありましょう。

 しかし、それは、いわゆる知識をふやすための聞き方にとどまってはならないと思います。

ふつう、私たちは、学校で、あるいは卒業いたしましても、それぞれの勤めを果たしていく上で、いろいろなことを学ばなければなりません。

多くの場合、たくさん知っておれば知っているほど、知識の量が増えれば増えるほど、よいことがあります。

学校では、成績がよくなるでしょう。

社会に出ても、知識が多いというだけで、何か得をすることがあるかと思うのであります。

いまは、そういった知識の多い少ないということではなく、自分の人生の上で聞かせていただくということでなければなりません。

したがって、それは、自分に都合のいいことだけを聞かせていただくというのではなくて、自分に都合の悪いこと、普段でありましたら余り聞きたくないようなこと、そういうことも聞かせていただかなくてはならない、ということであります。

 聞くということばは、私たちは、ふつう、いろいろな意味に使っております。
ラジオのニュースを耳で聞き、そうであるかという聞き方もあります。

けれども、道を聞くは、ただああそうかということではすまないのであります。

自分の歩いていく道が正しい方向に向かっているかどうか、という切実な思いにかられて道を尋ねる、それが道を聞くということでしょう。

さらに、学校の先生、あるいは子どもを持っている方々は、近頃の子どもはいうことを聞かないというふうに、よく申します。

この場合、いうことを聞く聞かないということは、耳に入れるということよりも、むしろ先生やご両親の指示に従うかどうかという意味を持っているのではないでしょうか。

 浄土真宗の聞くということも、一番はじめは、もちろん、耳に入れる、あるいは目を通して頭に入れるということでありますけれども、究極的には、み仏の教えに従うというところまでいく、そういう聞き方にまで進むべきものであると考えます。

私は、そこに、浄土真宗で申します聞即信、聞くことそのことが信ずることである、という味わいを持たせていただくことができると思うのであります。

 ところで、今日、私たちの社会には、さまざまな問題が出ております。
皆さまも、それぞれのお立場から、個人の問題、家庭の問題、そして社会のこと、日本のことなど、多くの問題を考えていらっしゃると思うのでありますが、その中で、私は、一つの私の考えをお話いたしたいと思います。

 それは、人間が自分を失っているのではないだろうか、自分自身を見失っているのではないだろうかということであります。
これは、もちろん、今日だけの問題ではないかも知れません。

けれども、今日、特に深刻なことであると思うのであります。
科学・技術がたいへんに進歩いたしまして、それで多くのことが解決されるようになりますと、今度は、人間の問題が出てまいります。

しかしながら、それだけで、皆さんが、今日の問題について、充分に理解してくださっているとは思えないことがございます。

 ごく最近、目にふれましたあるパンフレットの一部に、次のようなことが出ておりました。

皆さんも、よくご承知のように、家庭的、あるいはさまざまな面で困っている方を援助し、国民の一人として皆と同じような生活ができるように助け合っていこうということで、老人ホームや子どもたちを預かっている養護施設など、さまざまな施設がありますが、そういう方面のことを研究している方々の話が出ておりました中に、ある人が、そういった社会福祉は、科学的になされなければならない。
 たとえば、テレビや自動車がこわれた時に、お経を読んで直るだろうか。
 テレビや自動車や機械がこわれたら、科学の知識によって、科学的に 修理しなければ直らない。それと同じように、社会福祉も、ただお経を 誦えて困っている方々の生活が満たされるというのではなく、科学的に しなければならない。

 といわれているのです。


 もちろん、私が読みましたものには、それに対する反論、宗教的なものが無意味でないことの反論が書いてあったわけでありますが、皆さまにも、この点、ぜひ訴えたいと私は思ったのでございます。

確かに、自動車やテレビが故障したら、科学によらなければなりません。
しかし、社会福祉というのは、相手が人間でございます。
人間をテレビやラジオと同じように修理すれば、それで社会福祉になるか、私は、人間も機械も同じようにしか見ることのできない、この学者の考え方を、たいへんさみしく、悲しく思ったわけであります。

もちろん、身体が不自由で困っておられる方々に、お経をよんでいればそれで済むということではありません。

しかし、相手が人間である以上、心の問題を無視して、テレビやラジオ、自動車と同じように修理するということでは、私は、解決しない大きな問題があると思うのであります。

一流の学者さえも、このように人間を見ているというところに、私は、たいへん、深刻な問題を感じたのであります。

 それは、自分が人間であるということを忘れ、同時に、他の人びとも自分と同じ人間であるということを忘れてしまっているのではないかと思うのです。

今日、さまざまな問題が起こっておりますが、特に人間のつながりで大きな問題となるものに差別ということがあります。

これは、私たちが、互いに人間として、他の人間をどのように見ているか、自分と同じ人間として見ることができるか、ということにかかわる大事な問題であります。

自分自身を見失っておっては、とても他の人を暖かく見つめ、手をつなぐことができなくなることは、当然のことではないかと思うのであります。

そういった意味で、私たちは、まず自分を取り戻さなければならないのではないかということを、お話いたしたく思います。

 では、そのような私たちにならせていただくには、浄土真宗の教えが、どういう意味をもっているのでありましょうか。

 申すまでもなく、私たちに伝えられております浄土真宗は、他力廻向の信心であり、お念仏であります。

それは、み仏の真実の前に自らを正直に見つめることでもありましょう。
私たちが身にまとっておりますもの、身につけておりますもの、あるいは、社会的な地位や名誉などは、他人からつけ加えられたものであります。

生まれた時のそのままの姿という、そういった自分を、まずしっかりと知らせていただかなければならないのではないでしょうか。

先ほど申しましたように、着飾って鏡に写すことは喜びではありましょうが、自分自身の生まれたままの姿を本当に見つめるということは、決して楽しいことではございません。


 み仏の真実は、そういったごまかしを貫け見通して、見つめていてくださるのであります。

冷たく厳しく見つめていらっしゃるのではなくて、そのまま暖かく見通していただいている。
したがって、それによって、私たちは、正直に裸の自分として自らを知らせていただき、同時にそのまま暖かく包まれていいることを知ります。

そこに私たちは、心の安らかさを得ると同時に、自分だけがすぐれているといった奢りを離れて、謙虚さを持つこともできるのです。

 そうして、み仏のおこころをいただくことを通して、私は、自分中心の人生ではなくて、み仏のおこころ、如来の真実のおこころにかなった人生を送らせていただこうという願いを、同時に持たせていただくことができると思うのであります。

私は、そういう人生でありたいと願っているものであります。


昭和53年7月9日

浄土真宗本願寺派
 大谷 光真 門主述

本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より

(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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