真実のよろこび
(願いに応える人生)

最近思いますことは、お念仏をいただいて生きるということは、どんな意味をもっているのだろうかということです。

特に現代では、私を含めた多くの人びとが、いかにして生きたらいいか、日々の生活のことに強い関心を抱いています。

それは一面、この世のことばかりに気をとられているという意味で、危険な面もありますが、同時に、この世のことをおろそかにして、お浄土のことを思うということもできないという意味で、この世のことは大事であるということもできるのであります。

 そういった上で、お念仏をいただくことはどういう意味であるのだろうかと考えますと、私は、その中でいろいろ味わうことができると思うのでありますけれども、まず、それは、こころの喜びであると受けとりたいと思うのであります。

 特に浄土真宗の教えは、悪人正機、つまりどんな悪いことをしたものも救われる、あるいは自力は無効であるということが中心になっています。

ここで自分の力は往生のために何の役にも立たないという表現だけを一面的にとらえますと、何か消極的で、この世は暗くなってくるのではないでしょうか。

 先日 「本願寺新報」 の対談のために、ある将棋の大家とお目にかかりました。
対談が終わり、後で食事をしながらお話しをしておりました時、その方から 「 浄土真宗の特徴は、どういうことでしょうか 」 とのご質問を受けました。

私は 「 人間の力では及ばない、何かそういう世界のことを学ぶことではないでしょうか 」 というようなことを申しましたが、雑談の途中のことでもあり、私のお話の仕方が不充分であったせいでもありますが 「 何かそれはさびしいことですネ 」 というお返事をいただきました。

私は決してそんなつもりで申したのではなかったのですが、そういうふうに見える面もあるかも知れません。

しかし、それは一面でありまして、私はやはりお念仏をいただいて生きることは喜びであると受け取りたいのです。

 ただし、喜び、あるいは喜びにともなう感謝の気持ちといっても、どんな喜びでもいいというわけではありません。

私たちの普通の喜びというのは、何か勝負事、あるいはスポーツをして相手の人に勝った時、また仕事をしてようやく成果が上がり、他の会社に比べて自分の会社がうんと成績を上げた時の喜びであります。

しかしながら、そういった喜びは、必ずしも浄土真宗の教えを受けての喜びとは、まったくひとつにはならないと思うのです。   

 今、申しました普通の喜びは、確かに人間としての喜びに違いありませんが、振り返ってみますと、そこにエゴイズム、自分中心の匂いをかぐことができると思います。

たとえば自分が勝負に勝って喜ぶということは、相手の人が負けて悲しんでいるということが裏側にくっついた喜びであります。

ゲームとしての勝負でありましたなら、それはそれで何ら非難することもないのですが、それが人生の問題となり、また国と国との問題となった時には、ただ遊びというだけでは済まされない深刻な問題が起こることは、皆さまご承知の通りです。

 そういった喜びとは違った、もっと深い喜びでなければならないと思うのであります。

私自身のもっている暗い面、他の人を打ち負かして、自分だけが良いものを得たいという、そういった欲望をもっている私、そういうことを認めた上で、そういった自分自身を振り返り、自分の悲しみ、人生の悲しみというものを、充分に知った上で、しかも喜ぶことのできる喜びであると、こんなふうに受けとりたいのです。

ご法話で、聴聞、聞法ということがたびたび話題になりますが、み仏さまのおこころを聞かせていただき、み教えを聞かせていただくということは、必ずしも耳にここち良いことばかりではないと、私は思います。

 学校で、教室で、あるいはその他いろいろな所で学ぶような普通の知識でありましたならば、誰が聞いても同じ理解をするのが当然であります。

しかし文学的なことになりますと、人によって少しく味わい方、理解の仕方が違ってくることもあります。

けれども、それでもだいたい共通した理解をもつことができると思うのでありますが、み仏のおことばを聞かせていただくということは、ただ単に知識として理解する 「 AがBである 」 という風な理解の仕方では、まだほんの入り口でしかないと思います。

そういったところから始まって、自分自身の問題として受けとらせていただく、自分の人生として受けとめさせていただくことができるようになる、それが本当の聞法でなければならないと、私は思うのであります。

自分のもっている今まで何十年の人生の中でのさまざまな問題、決してそれはよかった面、楽しかった面だけではないのでありまして、苦しかった面も、あるいはまた良くなかったと反省せざるをえない面も含んでいますが、すべてをそういった上で聞かせていただく、受けとらせていただく、そのままが包まれていく教えであると思います。

 皆さまよくご承知の 『 阿弥陀経 』 の中で、お釈迦さまは「 舎利弗よ 」 と呼びかけてご説法なさっております。

日本の私たちの会話では、あまり相手の名前を出して、会話の途中で呼びかけることはいたしませんけれども、インドの方は、お釈迦さまの時代はもちろん、現在でもそうでしょうが、聞いている相手の人の名前をあげて、呼びかけながら話をするという習慣がございます。

これは習慣の違いですけれども、それ以上に大事な点が、この 『 阿弥陀経 』 から受けとれると思うのであります。

お釈迦さまは、この時の相手として舎利弗、あるいは他の経典では阿難、目連といったお弟子の名前をあげていらっしゃいます。

 私たちがこのお経を拝読させていただく場合には、それが私自身であると、私の名前が呼ばれているものと受けとらせていただくところに、私は経典の大事な意味があると思うのであります。

そうした私の問題として、私に呼びかけられているおことばとして受けとらせていただくところに、聞法の本当の姿があるのではないでしょうか。

仏さまのおことばがそっくりそのままそうであると、ただ理屈として理解されるのではなくて、自分の人生を通じて本当であると、まことにその通りであるとうなずかれるところに、聞くことがそのまま信ずることであるという、浄土真宗の味わいが出てくるのではないでしょうか。

 ところで、現代社会がかかえている問題については、皆さまそれぞれのお立場で、多くの問題を感じていらっしゃることと思います。

私も私の立場で、いろいろと考えております。
その問題のひとつに、現代人は自分自身を見失っていきつつあるのではないかーということがとり上げられると思います。

自分を見失うといっても、自分自身だれであるかということはよくわかっておりますけれども、本当の人間として、自分が自分であるということが、たしかに受けとられているのであろうかと考えますと、必ずしもそうではないように思われます。

 特に現代は、すべての面で科学技術の力が、非常に強い影響を持っております。

このお堂が明るく照らされておりますのも、一時代前の方々には想像もできなかったことでございますが、科学技術のおかげで、こうして明るく過ごさせていただくことができるようになりました。

ところが、そういったものに頼りすぎたために、人間として解決しなければならない問題も、科学の方によりかかってしまっているのではないかという気がいたします。 

 最近、人間の生命について、いろいろな角度から話題が起こっています。

人間として最も美しい生命の終わり方、まっとうする仕方について、今日よく話題になる問題として安楽死ということがあります。

この安楽死ということばは、私あまり好みませんけれども、いたずらに科学技術の力によって無理やり引きのばされた生命だけが望ましいとはいえないのではないでしょうか。

また、この安楽死ということには、さまざまの問題も含まれているように受けとれます。

特に生命のことは、私たち素人にはなかなかわからない病院の中の、専門家だけの問題として閉じこめられてしまいます。

 おそらく何十年か前の日本では、子どもが生まれるのも、また生命をまっとうし、この世を往生されるその姿も、家庭の中の出来事として、家族そろってその事実を、厳粛な事実を、受けとめることができたと思うのであります。

ところが現代では、子どもが生まれるのも病院、人が生命を終えるのも病院の中の出来事になってしまい、ごく限られた専門家の方々だけのことになってしまいました。

 したがって私たちは、人間の生命の尊さということを、充分に身体で、膚で感じることができなくなっております。

もちろん理屈としては知っていますけれども、それが身体で感じられなくなったところに、現代の多くの問題があると思うのであります。

 現代人の問題である自分自身がはっきりしなくなってきたということは、同時に他の人びとをも正しく見ることができなくなっているということと共通しています。

これは資本主義社会である日本だけのことではなく、世界に共通していると思うのでありますが、世の中は人間を、とかく人数で数えざるをえないしくみになっております。

 ここに誰と誰が出席しておられるということが、本当は人間として大事なわけでありますけれども、政治をする人、あるいは経済界を動かす人にとっては、何人集まったか、何歳の人が何人集まったかと、数字で見るようなしくみになっております。

良し悪しをこえて、止むをえないことでありますが、そういう社会の中におりますと、ついつい私たちもつられてしまいます。

人間を、自分以外の人を、本当の人間として暖かく見ることができなくなっていくと、人間が自分の目的を達成するための手段のように見えてくることが多いのではないか、と思われるのです。

 最近、いろいろな家族の問題が起こっております。
その多くは社会の問題が複雑にからみあって起こったものですが、その中で感じることは、人間が他の人間を本当に正しくみつめることができなくなってきた、自分と同じ人間であるということすら感じられなくなってきたということです。

したがって平気で人を差別することができるようになる。あるいは差別をしていても気がつかない人間になりつつあるのではないか、ということです。

 具体的に申し上げる時間もございませんが、人間の問題として見ました時には、私とあなたが同じ人間であるということを、本当に身体でもって納得できるようになりたいのです。

 今、申しましたような、さまざまなことから、私は現代人はさまざまな不安をもっており、不安におちいっている、こころ安らかならざる状態におちいっていると感じます。

ことに迷信、占いやお守り、お札といったものに頼って、なんとかこの不安をまぎらわしていこうという方法が考えだされたのであります。

過去にもまして、科学的ではない迷信が繁栄しております姿を見る時に、私たちはたいへん大事なことを、今、教えられていると思うのであります。

 たとえば先日、地震を体験されまし方は、おそらく最も人間の頼りとすべき大地が揺れ動くという、たいへんな不安をお感じになったと思います。

それは同時に、人間のこころの問題にも当てはめて考えることができます。
こころのよりどころを正しく持たないと、ちょうど地震で身体が揺れるように、よりどころを持たないこころは、ちょうとした出来事で右に揺れ、左に揺れ、不安が不安を呼び、混乱を重ねてゆく、それが現代の一面であると思うのであります。

そういう時代であるからこそ、私たちはただひとつの真実である阿弥陀如来のおこころを、お念仏として、南無阿弥陀仏として受けとらせていただく、如来のゆるぎのないしっかりとした真実を受けとらせていただく、その真実にすべてをおまかせした姿というものは、どんな外側からの不安やおそれに対しても、ゆらぐことのない力強さも同時に持たせていただくことができることであります。

 み仏の真実につつまれ、智慧と慈悲につつまれたこころの安らかさ、そして力強さ、これこそ最初に申しました本当の喜びであると、私は受けとっております。

今年の夏には滋賀教区で、 " 真宗青年の集い "  がございますが、そのテーマも 「 よろこび 」 です。

青年が喜びということをどのように理解しておりますか、まだ私も充分に意見を聞いておりませんけれども、本日は、私の味わいといたしまして、ただ煩悩を充たすような喜びではなくて、本当の、真実の喜び、み仏につつまれた喜び、そういうものを味わわせていただいているということをお話させていただきました。

昭和53年6月17日

         

浄土真宗本願寺派
大谷 光真 門主述
        本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より

        (内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

本願寺公式ホームページ へ      妙念寺ホームページへ