第1121回 プラス条件を増やせば幸せか ~智慧の眼をいただくと~

 平成26年 7月17日~

お医者さんで念仏者である 田畑正久さんがこんなお話をされています。
「仏教が教える物語」という在家仏教協会での講演の一部分です。

アリストテレスは、「人間は誰からも教えてもらっていないのに、
みんな幸せになりたいと思っている」と言っています。

幸せとは何でしょうか。

幸せのためのプラス条件を増やしていって、マイナス条件を減らして
いった人が幸せな人なのでしょうか。

戦後の日本人は、煩わしい人間関係を減らして核家族化し、
マイホームで自分の思いが実現すれば幸せになれると思ってきました。

しかし、思いの一部は実現したけれど、気づいてみたら心の中が
空白だった、と真宗のある先生がおっしゃっていました。

三木清の『人生論ノート』に、「幸福とは人格である」という一節があります。
私はこれを学生の時に読んで、まったく理解できませんでした。

その人の人格がどうであろうと、その人の周りに世間的な幸せの要因の

プラス条件がたくさんあれば幸せなはずだと思っていましたから……。

 三木清が言わんとするところは、私という存在が多くの因や縁によって
生かされている、支えられている、教えられている、願われているという
在り方をしていて、私と私の周囲がピッタリ一致して深い関係性をもち、
身土不二、身体と環境が一致して、生かされていると気づく、
そういう智慧の眼をいただいた人格こそが、本当に幸せな人なんだというのでしょう。

 道元禅師の言葉に、「仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、
万法に証せらるるなり」というのがあります。

仏道を習うというのは、私の姿がハッキリすることだ。
私たちの分別は、残念ながら煩悩によって汚染されている、
そのために私の在り方のあるがままの相が見えてないというわけです。

 縁起の法では、多くの因や縁でたまたま私という現象が仮の姿であるだけで、

固定した私というものはないというのが「無我」です。
よく一般的に、無我の境地という言い方をしますが、あれは無我ではなくて、
忘我の境地です。
ただ我を忘れているのです。

さらに言えば、私が悲しんだ、私が怒ったというように、私の心こそ私だと
思いがちですが、仏教ではその意識は感覚器官の一つであって、たまたま
因や縁が和合して悲しい気持ちになった、と考えます。

だから感情の奴隷にならないようにと忠告して教えるのです。

 では私とは何かというと、いろいろな因や縁で感じる仕組み、
システムといえばいいでしょうか。私は因や縁によって生かされている、
私にとって都合のよいものも都合の悪いものもみんな私を支えている、

それを道元禅師は、「万法に証せられている」とおっしゃっているのです。

自分が生かされていると気づくと、自分の役割に気づくのです。
自分が生かされていることに気づかず、私が生きていると思っているうちは、

自分の役割というのは分からないでしょう。

生かされていると気づけば、家庭での役割、職場での役割、地域社会での

役割が分かってくるのです。・・・・


         


           私も一言(伝言板)