第1109回 願いの方向 〜仏さまが 私に願を〜

 平成26年 4月24日〜

 みなさんは、仏さまの前に座って仏さまを拝む時、どのような気持ちで
お参りをしておられるでしょうか。

静閑なお堂の中で、慈悲深い仏さまのお顔を拝んで心を落ち着けると
いったお参りをされる方もあるでしょう。
また、今日一日が無事に過ぎたことに対する感謝を仏前で
表される方もおられることでしょう。

けれども、いったん解決しがたい問題が日常生活に起こったときなどは、
つい「もう少しこうなってほしい」と自らの願いが叶えられることを
期待してお参りをされることはないでしょうか。

マスコミなどでも、自分から仏に願いをかけ、その願いが叶うように
仏に祈ることが仏教であると報道されることがほとんどといってよいでしょう。

つまり、こちらから仏に願いをかけるという方向こそが仏教だと
されがちなのです。


 しかしながら、すべての仏さまは私たちに対して願いをもっておられる
存在なのです。

こちらから仏に願いをかける前に、仏さまから私たちに対して
かけられている願いがあるのです。
私たちは、自分の願いには敏感ですが、仏さまの願いには、
あまり気づこうといたしません。実は、私たちが願う前に、
眼には見えない仏さまの方から私たちに願いがかけられていたのです。

 ですから、仏に向かって自分の願いを叶えてほしいと拝むのではなく、
仏さまから私たちに向かってかけられている願いに気がついて、
それをよりどころとして生きることこそが、仏教徒といえるのでは
ないでしょうか。

 では、阿弥陀さまはどのような願いを私たちにかけておられるのでしょうか。

 

「仏説無量寿経」には、阿弥陀仏という仏‘さまが法蔵菩薩であったときに、
四十八の願いを建てられたと説かれています


その第一番目の願いは、

設我得仏国有地獄餓鬼畜生者不取正覚   というものです。

この中、最初の「設我得仏」とは「わたしが仏になるとき」と訳され、
最後の「不取正覚」は「わたしは決してさとりを開きません」と訳されています。

ですから、第一番目の願いとは、
  わたし(法蔵菩薩)が仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生
  のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません
                         (『浄土三部経(現代語版)』  

という意味になります。つまり、わたしの国に地獄などの悪道の世界が
あるようならば、わたしは仏にならないと誓われているのです。

 この第一願と同じように、以下の四十八の願いはすべて「設我得仏」で
始まり、必ず「不取正覚」という語が入っています。

この「設我得仏」 「不取正覚」があるのは、「仏になろうとするとき」に、
それぞれの願いが完成しないのならば「仏にならない」ことを意味しています。

「完成しないのならば仏にならない」とは、つまりは、どんなことが
あってもなんとしてもその願いを完成させるぞという法蔵菩薩の
強い決意を表していることになります。

強い決意によって誓われた願いという意味で、四十八の誓願ともよばれます。
このような強い決意に満ちた仏の願いが私に向けられていることに
私たちはどれだけ気づいているでしょうか。

      本願寺出版社 はじめての親鸞さま 森田真円著より


        


   私も一言(伝言板)