第1093回 涅 槃(ねはん)  ~藤沢量正師のご法話~


 呉線のほとりにある川尻の光明寺坊守の日高房さんは、
癌に冒されて五十九歳で往生されましたが、その直前に、

死のふちに 立ちてもうれし このわれを
はなしたまはぬ みおやのあれば


という遺詠を残されました。

いうまでもなく、命終畏は人間の持つ畏れのなかでも
最も深刻なものです。
にもかかわらず 「うれし」と表現したのはなぜか、
何かどのようにうれしいのか、そこをわたしたちは考えて
みなければならないのです。

病苦をよろこぶものはなく、死に臨んでかなしみが

よろこびにかわるはずもないのです。
問題は、よろこぶ場はどこなのかということです。

この遺詠は、「このわれを はなしたまはぬみおや」の
あることを、「うれし」とよろこんでいます。
浄土真宗のよろこびは、まさに如来に救いとられる身を
よろこび、かわることなき如来の大悲の深さをよろこぶのです。

 わたしたちは、日頃「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」
(「正信念仏偈」)の聖句にふれています。
意訳には「まどえる身にも信あらは 生死のままに涅槃あり」
とあるように、生死流転のなかにありながら、信を得る身となれば、
浄土に往生して仏と成る身に定まることがよろこばれるのです。
その願力の狂いなき確かさに心が安らぐのです。

だからこそ、
念仏者は無碍の一道なり 『歎異抄』 といわれるのです。

曇鸞大師は、
一道とは 一無礙道なり。「無礙」とは、いはく、
生死すなはちこれ涅槃と知るなり (『往生論註』)
と説かれました。

生死とは、この世に生まれ、死ぬことにかかわりのある
迷いのことです。

にもかかわらず、涅槃の仏果を得ることができるのは、
まさに如来より回向された信心一つによると知らされれば、
さとりをあらわす涅槃を「すくい」と意訳されたことが
うなずけるのです。

 本来、涅槃という語は、ニルヴァーナの音写で、迷いの火を
吹き消した状態を指します。
また「滅度」とも訳されていますが、これは、煩悩の大河を
渡り越えた状態をいいます。しかし、

「滅度」と申すは、大涅槃なり(『尊号真像銘文』)(六七一頁)
と示されているように、
涅槃・滅度ともにさとりの境涯を示したものです。

「解脱」も、さとりをあらわすことばですが、これは煩悩や
あらゆる束縛から解放されて精神が自由になることをいいます。
涅槃と解脱は同じ意味に理解されますが、解脱のあとに
涅槃を得ると考えることもあり得ることです。

釈尊が三十五歳で仏となられたのは解脱されたということであり、
涅槃に入られたのは八十歳であったというが如きものです。

 また『仏説無量寿経』にも出てくる「泥(ないおん)
という語も涅槃の異名です。
「泥之道」とは涅槃に至る道をいうのです。
いずれにしてもわたしたちは、みずから解脱・滅度・涅槃への道を
歩みきることはできません。

如来に救われてはじめて、生死の苦海を渡り得る身に
なるとよろこびたいものです。

  藤澤量正師 仏教語のこころ 「ことば」 より

 妙念寺電話サービス 次回は 1月9日に新しい内容に変わります。


         


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