「宗教と政治」考

政教分離についての憲法学者の解釈

 
定宗教を背景とする公明党が政権に参加しているのは、憲法の政教分離原則に反するのではないかという議論がある。一時野党であった自民党がこのような批判を展開していた。ところが現在、同じ自民党が公明党と連立を組んでいる。笑止千万な、ご都合主義である。

 
教分離とは、政治は宗教に介入してはならず、宗教も政治に介入してはならないという原則だというような説明が常識的説明としてまかり通っている。よって、憲法は宗教政党の政権への参加を禁じているのだと。本当に、憲法は宗教政党が政権に参加することを禁止しているのであろうか。

 
本国憲法の条文上で禁止されている事項は、国家による宗教団体への「特権賦与」、宗教団体による「政治上の権力行使」(以上二〇条一項)、国家機関の「宗教活動」(二〇条三項)、宗教団体の使用、便益、維持のための「公金の支出」(八九条)である。最高裁は、政教分離の原則とは「国家の宗教的中立性の原則、ないし国家の非宗教性の原則である」(津地鎮祭判決)と述べているが、宗教団体の政治活動には言及していない。

 
法の「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」という規定は、一見、宗教団体の政治活動を禁止しているようにも見える。しかし、このような解釈は政教分離制度の根本目的である信教の自由の保障を脅かすことになる。信仰上の要請に基づく宗教的活動であるが、同時に政治性を帯びているというケースはいくらでもある。政治的、社会的な抑圧に苦しむ人々の側に立ってその解放のための活動が「政治的影響力の行使」に当たるとして禁止されることになれば、信教の自由が侵されるばかりではなく、時の政権に都合の悪い宗教活動を弾圧するための根拠に用いられかねない。

 
治上の権力とは、国家の統治権力、すなわち立法権、行政権、司法権で、宗教団体がこれらの権力を行使することが禁じられていると解するのが、憲法学上の多数説である。またこれは、宗教団体に対する禁止規定ではなく、国家に対する禁止規定なのである。つまり「国はいかなる宗教団体に対しても、政治上の権力を行使させてはならない」ということなのである。

 
まり、宗教団体が選挙活動その他の政治的活動を行うことは違憲ではない。政党は国家機関ではないから、宗教団体が政治団体や政党を結成することも違憲ではない。さらに政権与党も内閣とは異なり国家機関ではないから、これに宗教政党が加わっても、それ自体は違憲ではない。宗教政党が単独過半数を制すれば、総理大臣および閣僚はすべて宗教政党から選出されることになり得るが、閣僚が個人的に宗教を持っていても違憲にはならない。ただし、内閣または閣僚がその支持母体である宗教団体に特権を付与したり、便宜を与えたり、閣僚の立場で宗教的活動を行ったりすれば違憲になる。もちろん、宗教政党が政権に参加すれば、その危険が増大するかもしれない。

政教分離についての筆者の意見

 
もそも宗教団体と政治団体とがそれほど判然と区別されうるのだろうか。社会主義・共産主義国家では共産党が国家権力を完全に掌握していたが、この種の政党では、党のトップに君臨する優越する個人に対して、崇拝、畏敬、命令に対する盲目的服従、彼の説く教義に対する論議の禁止、その教義を流布しようとする欲望、それの認容を拒む者をすべて敵対者と見なす傾向、などを持っていた。また一般に、共産主義イデオロギーに対してこのような感情が向けられていた。その本質は、宗教的なものである。人は、神を礼拝するときに宗教的であるのみならず、感情と行為の目標や指導者となった人物あるいは主義のために、あらゆる精神力を捧げ、意志を完全に服従させ、熱狂的信念の熱情を傾けつくすときにもまた、宗教的である。

 
のように政党と宗教団体との判別は難しいどころか不可能でさえある。それ故、宗教団体の政治参加を不可とすることなど、元来出来るはずのないことだと筆者は思う。

参考文献
講談社学術文庫「群集心理」ギュスターヴ・ル・ボン著、櫻井成夫 訳



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