悪平等主義を摧破しよう

 世間の似非平等主義者達は、「努力する者と努力しない者とが、結果において平等である事」が、あたかも当然の正義であるかのように、言葉の害毒を垂れ流している。このような馬鹿げたことを実際にやってのけて崩壊したのがソビエト赤色帝国である。
 「努力する者としない者が平等であるのは当然だ」と言うためには、@「努力する行為そのものが無価値である」と考えるか、A「努力する対象が無価値である」と考えるかのいずれかでなければならない。連中もまさか@を公然と主張するわけにもゆかないので必然的にAを主張することになる。「受験勉強など価値がない」から始まって「詰め込み教育など有害である」「受験勉強は悪徳である」等と言っていたが、最近では「努力」を「競争」という言葉に置き換えて何と@を主張するようになってきた。曰く、「公教育から競争をなくしましょう」である。
 もちろん、努力は別に勉強や学問の分野だけで行われるわけではない。仕事や社会活動等においても努力する者としない者は存在する。いわゆる「年功序列」の制度は決して日本古来の風習などではない。せいぜいが第二次大戦頃に起源を持つにすぎない。しかし、この制度がいかにも、日本古来の美風であるかのごとく、あるいは不磨の大典であるかのごとく言う連中がいる。そして、努力する者も「お日様西西」の怠け者も、ただただ年を取ったという理由だけで「平等」に給与を上げよと言うわけである。特に公務員にその傾向が著しい。いわば、全員が公務員であった赤色帝国の経済や社会システムが崩壊した原因もここにあると考えられる。「公務員は実績の評価が難しく評価者の恣意が入りやすいので、はっきりしたマイナス行為でもない限り平等に扱われる。」のだそうである。これでは勤労意欲は自ずから減退せざるを得ないであろう。行政が非能率極まりないと批判される根本原因は、この悪平等主義に存すると言わなければならない。
 サウスポーの連中が戦後一貫して、各界各層において「憲法は結果の平等を保証しています」「競争は人間性の阻害につながります」などと宣伝しまくり、日本人の勤勉な精神構造を破壊してしまった結果、日本は怠け者と不良が大手を振ってのさばり、コツコツと努力するまじめな人々はその割を食わされるというとんでもない社会になってしまったのである。このような日本を再び活性化させるためには競争原理の徹底した導入を図る事が必須であると考える。



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