詭弁・強弁・開き直り

 世の中には様々な「誤魔化し」や「言いくるめ」のための言い回しがある。このような「道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論。外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法。」を詭弁という。さらにひどいのが強弁で「道理の通らないことを無理に言い張ること。」である。今の世の中、右も左も詭弁や強弁、はては開き直りだらけである。また種々の言葉の意図的な誤用等も多い。ホンに困ったものである。

 以前にも書いたが、
「性善説」の意図的な誤用などはお役人様の十八番で、例えば今回の偽装マンション問題における政府の答弁のように「これまでは性善説に基づいて指導監督してきたがこれからは、業者は悪いことをするかも知れないという目でもって指導していきます。」といったふうに使うのが一般的である。「人間は本来善を行う本性を先天的に具有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとする説。」性善説という。孟子が首唱した考えである。ついでながら性悪説とは荀子の首唱したもので「人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によってのみ可能とする説。」である。いずれも現実の人間は善も行えば悪も行うという前提に立って、本来の性質が善なのか悪なのかを論じているのである。現実の世間の人間達を扱うについては、性善説に立とうが性悪説に立とうが同じになるはずである。
 ついでながら、筆者の人間理解は、仏教の
「十界互具」である。人間の心のあり方をよくよく観察してみると、仏や菩薩様のように慈悲の心もあれば、逆に瞋(いか)り(修羅)の心やむさぼり(餓鬼)の心も持ち合わせている。といった意味である。よって、可能か否かは措くとして、なるべく菩薩のような心持ちの部分を増やしましょうという結論になるわけである。
人間観がいかようであろうとも、実際の社会では悪人善人入り交じり、同一の人間の中においても善心悪心絡み合っているわけで、苟も政治や行政の要職にある者が「性善説」を意図的に誤用して「世間の人は皆善人であると思っていました」などと開き直るとは全く許し難い。
 開き直りといえば、ある時「あとは、あなたの良識にお任せしたいと思います。」と某県のお偉方に言ったところ「役人に良識なんぞあるわけねぇだろ」と斬り返されてしまった。イヤ〜、参った参った。参りました。もっとひどいのになると、聞いた話だが、自分の責任を部下に押しつけるために「ファックスでの報告はあったが、正式な報告は受けていない。よって本職は何も知らなかった。」と強弁した某厚労省から某県に出向していた女性のお偉いさんがいたらしい。

 話は変わるが、以前に書いた「医師は本当に良い商売か」に対して色々と横やりを入れてくる「若いの」が多い。多くは「待遇が良かろうが悪かろうが、立派な医師になって世間に尽くしたい」という前向きで応援したくなるものであるが、中にはふざけたバカがいて「本当に過剰になってくれれば当直や残業が少なくなって助かる」などと揶揄してくる。これなども詭弁の一種だと思う。需要と供給だの市場原理だのといった大それた言葉を持ち出さなくても、現実に行われている企業のリストラを見れば分かるように、過剰になって買い手市場になれば、待遇が悪くなることはあっても良くなることはない。医師過剰になって失業医師がでている他の国々の先例を見れば分かりそうなものである。

 筆者が趣味としている歴史の世界では、「邪馬台国が畿内に東遷するなどあり得ない。なぜなら、当時の畿内は低開発地域であり東遷する利益も動機もないからだ。」というのがある。邪馬台国が征服して拠点を移す気にもなれないほどの低開発地域に、その直後の時期に、一体どのような契機と過程で、いくつもの巨大な墳墓を造営し西日本一円を統一した大和朝廷が出来たのかを問いたい。
 大和朝廷が大和盆地に発祥したと仮定すれば、邪馬台国があった当時には既にそれなりの富と力をもった先進地域(よって、征服して拠点を移す魅力のある地域)である必要がある。もし、富も何もない後進低開発地域であったとしたなら、一気に高度先進地域になった理由は外部からの侵入しかない。すなわち、東遷はあり得るわけである。、
 「邪馬台国が畿内に東遷するなどあり得ない。なぜなら、当時の畿内は低開発地域であり東遷する利益も動機もないからだ。」という命題は、前段と後段が互いに矛盾する二律背反になっているのである。つまり、「大和盆地は邪馬台国の時代には先進地であった。」または「邪馬台国か否かは分からない(当然に邪馬台国の可能性もある)が、外部からの勢力によって大和盆地が開発された。」と考えるしか当時の歴史を説明できない。よって、一見まともそうに見える上記の仮説は誤りであり、詭弁である。
 残念ながら、歴史の議論には結構このようなものが多い。例えば、被差別部落の源流を俘囚に求める説に対して「もし俘囚が部落の源流なら東北地方は部落だらけでなければならない。」という噴飯のもの反論がある。黒人は米国内で差別されているが、サハラ以南のアフリカで黒人は黒人故に差別されることはなく、在日朝鮮人は日本で差別されることはあっても、韓国・朝鮮では朝鮮人であることを理由に差別されることはないのである。このようにチョット考えれば分かることであるが上記の議論も俘囚起源説の反論には到底なっていない。もちろん、俘囚起源説が正しいかどうかは別の問題である。但し、参考までに付け加えると、東北地方に被差別部落は非常に少なく、その殆どは近世起源である。

 現代的な話題から一つ。「ニートは親に見捨てられた若者である。」一見まともそうな議論に見えるが、やはり誤りである。働かず学ばず食っていけているのである。では誰が面倒を見ているのか?親しかいないのではないだろうか。これを見捨てていると言われたら親はかなわない。確かに「人はパンのみにて生きるにあらず。」で、「生活の面倒を見ればいいというものではない。精神的にもっと愛してやりなさい。」というご意見もあるかも知れないが、良い若い者が甘えたれたことを言うなと言いたい。人の気持ちを理解しようとしないくせに自分を理解してくれと要求し、恩を感じず文句ばかり言う馬鹿者を量産した結果が今の世間の乱れに繋がったのではないかと筆者は思う。
 もっと単純な例を挙げると、「世間は彼に冷たかった。故に彼はグレて犯罪を犯した。」というのも結構疑わしいこと方が多い。本当は「彼はワルだった。故に世間は彼に冷たくした。」場合も結構多い気がする。詭弁を見抜くには「結果と原因との先後関係」をよく見る事も必要である。

 偏見をあおる常套手段としては「ある事件の犯人は、某国人であった。よって某国人は犯罪集団である。」といった類のものであるが。逆に「某政党所属の人間が凶悪犯罪を犯した。よって某政党は悪い政党である。」というのは必ずしも偏見とは断定できない。なぜなら政党によっては入党に際し厳しい人格・思想審査がある場合がある。そのような人間を入れたことについて政党の性格自身に問題がないとは言い切れないと思うからである。まして「ある政党に所属する夫婦の自宅で信じられないほど凶悪な虐殺事件が起こった。その政党はその夫婦の『被害者が逃げなかったのがいけない』という主張を機関誌に掲載した。よってその政党は悪い政党である。」という主張には道理があると筆者は思う。

 部分を無条件に全体に敷衍するのは偏見だと断定できるが、部分に起こった現象について全体を貫徹する問題に由来しているなら、あながち偏見とは言えないと思う。上に挙げた「某国籍を持つ者が犯罪を犯したから、某国人には犯罪性向がある。」というのは誤りであるが、「某国からの密入国者の一人が犯罪を犯した、故に某国からの密入国者には犯罪性向を持つものが多い。」というのはあながち間違いではない。なぜなら、既に違法行為を犯している人間の集団であるからである。

 何はともあれ、世間に蔓延する詭弁、強弁、開き直り、偏見のばらまきから、「正見」に対する攻撃まで、悪人共の繰り出す罠に引っかからないように気をつけなければならないと思う筆者であった。



このボタンを押すとアドレスだけが記された白紙メールが私のところに届きます。


目次に戻る

表紙に戻る