罪を憎んで人を憎まず

 
本の刑法に流れる基本的な考え方は何か。それは「人を憎んで罪を憎まず」という発想なのである。「それは逆ではないのか。少年犯罪や心神喪失者や心神耗弱者の犯罪全く処罰されていないではないか。」という反論が多く出ると思う。

 
筆者は、「犯罪とは、構成要件に該当し、違法且つ有責な行為である。」と教わったことがある。未成年者の犯罪や心神喪失者・耗弱者の犯罪について無罪だったり、刑が軽すぎたりするのもこの考え方が基本になっているのである。つまり「責任能力」が無いあるいは低いという理由からである。有責性がない、または低いからして、無罪ともなり軽い刑ともなるのである。責任能力とは当然のことながら、「個々人に固有の」性質のひとつである。つまり、今の刑法は「人を罰しているのであって、罪を罰しているのではない」のである。「人を憎んで罪を憎まず」なのである。もし「罪を憎んで人を憎まず」であるなら、個々人に固有の能力である「責任能力」など問題にせず、犯罪の結果の重大性やその態様の残虐性などによってのみ罪を認定し刑を定めるはずである。

 
「罪を憎んで人を憎まず」の裁判といえば「大岡裁き」が有名である。もちろん、江戸町奉行は盗人や人殺しの裁きなどしなかったし、大岡政談のネタの多くは中国製らしいのだが、それはさておいて、とにかく大岡様は「責任能力」など問題にしたことはないはずである。問題にするのは被害者と加害者との関係で、加害者に対して同情すべき点があったかなかったか位であろう。たとえば、被害者が日頃加害者をいじめまくっていたとか、挑発しまくっていたとかである。

 
近の少年による凶悪事件の冷酷さから、彼らの一部には脳に何らかの障害があることが推定されている。爬虫類以下のレベルの脳と人間らしい脳とのバランスが関係しているのかもしれない。殺人犯人には、道徳心や同情心が欠けており、前頭葉に欠陥があるのではないかと疑われているのである。このような連中に対して「病気が原因で責任能力がない」などといって無罪やら寛刑に処していたら世の中は犯罪天国になってしまう。

 
「罪を憎んで人を憎まず」という意味をしっかと理解して「人を憎んで罪を憎まず」の、明治時代にできあがった現行刑法の改正を断固行うべきであると思う今日この頃の筆者である。



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