精神疾患と養育環境

はじめに
 
成年による一般人には了解不能の凶悪事件が起こると、すぐに出てくる議論が「親の教育、養育態度」の問題である。「親は一体何をしていたんだ」という議論がマスコミをにぎわすのである。これは一体どの程度科学的なのか?!

 これらの議論には、非行や犯罪が心の異常の結果であり、心の異常は全て心理的な要因で起こるのだ、という理解が前提にあり、そして心理的な要因を家族に求めるときこのような議論が行われる。
 本当に心の病気、異常、不調は心理的な要因のみで起こるのであろうか。以下、代表的な「心の病」である統合失調症(精神分裂病)についてみてみることにする。

1 統合失調症と養育環境
 
合失調症は、思春期に、意欲低下、感情鈍麻、思考貧困などの陰性症状が発症し、幻覚、妄想などの活発な陽性症状の増悪と寛解をくり返しながら、次第に陰性症状が悪化していく疾患である。

 統合失調症の原因については、「悪い養育環境、特に悪い母親が原因である」という学説が「定説」となっていた。さらにそれを発展させ、「家族全体が問題である」という説も現れた。曰く、「統合失調症の母親のおよそ半数が、風変わりで、精神病に近い状態であるか、明らかに統合失調症であった」と結論し、「父親もきわめて有害で、病的な影響を家族や患者に及ぼしている」といった家族の相互作用によって、統合失調症が発生するのであると。

 これらの説のおかげで、患者の親達は、「しっかり育ててきたのにどうして…」「育てかたが悪かったのでは…」等と自分を責めて苦しんだのである。しかし、現在では、それらの「定説」は全く科学的根拠に欠けていることが明らかになっている。

 ついでながら、自閉症もかつては「母親の養育態度に問題がある」などと家庭関係が追求されたものであるが、 今のところそういった因果関係は証明されていない。現在では生まれもった障害に原因があると考えられるようになっている。

2 伝統的精神医学による、統合失調症のあまりに哲学的な理解
 
19世紀末、エミール・クレペリンは早発性痴呆という概念で統合失調症を捉えた。統合失調症はその後ずっと、「現実との生ける接触の喪失」「生の一貫性の解体」「自明性の喪失」などと表現され、ながらく不治の病というレッテルを貼られてきた。1950年代以降、クロルプロマジン、ハロペリドール等の治療薬が登場し、薬物療法が開始され治療可能な疾患となったものの、患者達は精神病院に「収容される」という状態であった。

3 ようやく明らかにされ始めた統合失調症の病因
 
年、他の多くの医学分野と同様な科学的生物学的な手法によって精神疾患を見るようになってきた現代的精神科学によって、統合失調症も「脳の障害」として認知されるようになってきた。中でも脳の画像診断的な研究の進歩が大きな役割を果たした。MRIが登場し、従来CT検査では測定が困難であった側頭葉、辺縁系、小脳、視床などの構造物の断面積や体積の測定が可能になった。統合失調症における脳の画像診断的特徴が次第に明らかになってきた。側脳室の拡大、側頭葉、前頭葉、頭頂葉、海馬、扁桃体、視床ならびに小脳の萎縮などの所見が認められた。そして、その発生機序は神経発達的なものと考えられるようになり、統合失調症の病態は、大脳の局所的なものでなく、大脳皮質から視床、辺縁系、小脳をも含む広範な神経回路網の障害と考えられるに至っている。統合失調症の精神症状は、これらの障害の程度に応じて現れることが明らかにされてきた。そして、薬物療法と心理社会的介入の両者を組み合わせる治療法が開発され、統合失調症の寛解率は上昇している。

4 脳障害の原因
 
伝子的素因、ウイルス感染、周産期障害などの相互作用により、海馬-前頭葉を中心とする「自我」の基盤となる神経回路網の発達が障害されることにより、自我の確立する時期である思春期に破綻をきたし発症する疾患、というのが、統合失調症に関する最近の理解である。

(1)統合失調症の関与遺伝子
 
合失調症は、抗精神病薬の作用機序から、ドーパミンが関与すると考えられていたが、ドーパミン系の遺伝子には明らかな異常は見出されていない。遺伝子異常としては、神経発達に関与する遺伝子、免疫関連遺伝子が検討されている。

 2000年スコットランドのエディンバラにあるMedical Research Council Human Genetics Unitのデビッド・ポーチャスを中心とする研究チームは、統合失調症発症の一因と見られる2つの遺伝子の特定に成功したことを明らかにした。研究チームは、研究対象となった人のほとんどが、23組あるヒトの染色体のうち第1染色体上に位置する遺伝子の2つに欠損を持つことを突き止めた。ただし、統合失調症についての遺伝子学的研究はまだ始まったばかりで、他の原因遺伝子を見つけるための努力は依然として続けられている。

(2)統合失調症とウイルス感染
 
イルスについては、インフルエンザウイルス、ボルナウイルス、レトロウイルスの関与が示唆されている。

 統合失調症が冬生まれに多い、都市に多い、都市化と共に増加したらしい、高緯度地域に多い、といった疫学的事実から、周産期のインフルエンザ感染の関与が考えられている。インフルエンザの流行後に統合失調症の発症が増えたとの報告もある。

 ボルナウイルスは動物に行動異常を来すこと、辺縁系に感染し、海馬の形態異常を来すことなどから考えられたもので、統合失調症患者の死後脳からも検出されている。

 レトロウイルスは、統合失調症一卵性双生児不一致例間のゲノム差異の原因である可能性がある。

 統合失調症は、遺伝的素因を持った者が、ウイルス、周産期障害などの脳障害を来す外因にさらされた場合に、海馬-前頭葉を中心とする「自我」の基盤となる神経回路網の発達が障害され発症する疾患、というのが最近の理解と言ってよかろう。

まとめ
 
上のように「心の病」とは「脳の病気」であり決して心理的な要因のみで起こるのではない。むしろ、その主な原因は、ウイルスや遺伝的素質あるいは周産期に受ける物理的な外力などであると考えた方がいいと思う。これは統合失調症のみに言えることではなく、全ての心の病において言えることである。心の問題を安易に親や家庭、社会のせいにしてはならないと思う。効果的治療法の開発のためにも、むしろ遺伝的脆弱性やウイルスなどの研究が急務であろう。



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