日本型システムは日本古来の制度に非ず

1.1940年体制
 日本型システムは日本の長い歴史や文化に根差している特有のものであるとしばしば考えられている。一方、日本型システムに断層があるとすれば太平洋戦争敗戦の前後の間で、占領軍による戦後改革によると考えられている。そして往々にして不可変のシステムであるとの結論に達しやすい。
 ところが、よく調べてみると、
現在の社会・経済システムは昔から存在していたのではなく、総力戦遂行という特定の目的のために導入された、日本の歴史においても特殊例外的なものだったのである。

以下、主に
野口悠紀雄氏の著書にそって概観してみたいと思う。

 野口悠紀雄は、「経済構造の基本的部分では戦時体制が敗戦後も生き残り、高度経済成長に対して本質的な役割を果たした。」と指摘している。そして、「高度成長を支え現在の日本をつくったのは、基本的には、総力戦遂行を目的に強権発動によって整備された戦時総力戦体制であり、その意味で日本は戦時体制が終わっていない。」といい、その体制のことを「1940年体制」と命名している。日本社会の本質的断絶は戦前と戦中の間にあったというのである。では、1940年体制とは具体的にどのようなものなのか。

2.国家総動員
 「国家総動員の中枢機関」として、1937年、内閣に
企画院が設けられた。そして、1938年には、「国家総動員法」が制定された。これは、「国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシム様人的及物的資源ヲ統制運用スル」ことを目的としたものであり、国の資源と労働力のすべてを戦争目的のために動員する統制権限を、政府に委任した授権立法で、ナチス・ドイツにおける授権法の日本版である。

(1)財政制度
 1980年代の消費税の導入過程をみれば明らかなように、一般に、大規模な税制改革は政治的な抵抗のためにきわめて困難な課題である。1940年の税制改革は、戦時という異常な背景のもとで初めて可能になった大改革であった。
 戦前の日本の税体系は、地租や営業税など、伝統的な産業分野に対する外形標準的な課税を中心とするものだった。また、地方財政はかなりの自主権をもっていた。
 1940年、戦費調達のため、
世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入された。これによって給与所得の完全な捕捉が可能になった。さらに、法人税を独立の税とし直接税を中心にすえた税制を確立した。結果、所得税と法人税の国税収入に対する比率は、40年税制改正以前は20−30%であったが、改正後は、40−50%となった。直接税中心の税体系は、現在に至るまで続いている。現在、国税収入の約7割が、直接税である。
 所得課税を国に集中させ、これを財源とした
補助金によって地方財政を国のコントロール下におく。地方財政は、分権的なものから、国に依存する体質に変化した。「地方財政の中央依存体質」は、戦後さらに強化され、現在にいたるまで日本財政の基本的な性格である。

(2)弱者保護
 1940年体制は、経済的・社会的弱者に対する保護制度が、社会政策的な観点から導入された。その代表的なものとして「
借地法・借家法」と「食糧管理法」があげられる。
 現在にいたるまで農業政策の基本となっている「食糧管理法」は、1942年に制定された。これは、単なる食糧管理にとどまらず、江戸時代から続いた地主と小作人の関係を大きく変え、地主の地位を低下させた。それまでは、徳川時代から続く現物小作料制で、小作料の額は収穫の半分程度であった。食糧管理制度における供出制では、小作農は地主ではなく政府に米を供出しその代金を地主に払えばよいこととされた。こうして、小作人は直接に政府から収入を得られるようになったのである。さらに政府は、生産者から直接に買い上げる場合には増産奨励金を交付して高く買い上げる一方で、地主から買い上げるときにはこれを給付しないこととした。それまで、収量の50%にも達していた小作料は、43、44年産米では38%に低下し、さらに45年産米では、18%にまで下がった。これによって、戦後の農地改革の準備がなされ、さらには保守政治の基盤に関して重要な意味をもつことになる。
 また、41年には、借地・借家人の権利を強化するための「借地法・借家法」の改正が行われ、都市における地主の地位は弱体化され、借地・借家人の権利が強化された。その主な目的は、主が戦地に赴いたあとに残された家族が、借家から追い出されるのを防ぐことであった。
 社会保障制度も、戦時体制として整備された。1938年の「
国民健康保険法」、39年の「職員健康保険法」などにより適用対象が拡大され、ほぼ全国民を対象とするものとなった。また、41年に「労働者年金保険法」が制定され、老齢年金などの支払いが規定された。これらの施策の狙いは、労働者の転職防止にあった。
 日本では、社会民主主義的な政策は官僚によって推進されてきた。農村救済策、「借地法・借家法」、健康保険制度などは「
新官僚」や「革新官僚」によって導入された制度である。戦後、GHQの民生局に結集したニューディール官僚による「民主化政策」も、典型的な社会民主主義的改革であった。政策内容でみる限り、社民主義と官僚主義を区別することは難しい。

(3)間接金融システム
(a)新経済体制
近衛文麿

 1940年に発足した第二次近衛内閣は、「新経済体制」の一環として、金融統制を強化した。このため、自由な市場での直接金融方式から統制的な間接金融に変質した。企業が利潤を追求するのは株式で資金を調達するからであり、これに代わる資金調達手段があれば、利潤追求がなくなるだろうという考えによるものである。戦前は財閥の力が強く、多額の資産を保有する資産階級が存在した。金融市場における統制色も希薄であった。そのため、産業資金供給の約9割が企業が市場から株式で直接資金を調達する直接金融であった。それを、「借りたい人」と「貸したい人」の間に、金融機関が存在する間接金融に重点が移っていったのである。
 間接金融政策の中身は、人為的低金利政策(金利規制、店舗規制)、「外国為替管理法」による金融鎖国体制である。これは、資源を軍需産業に傾斜配分させることを目的としたものである。また、これは、企業の形態が株主中心のものから従業員中心のものに変貌したことと裏腹の関係をなしている。配当が制限されれば、当然株価は低下し、株式市場からの資金調達が困難になるからである。「間接金融」では金融機関がリスクを負担するため、「預金者」は自分自身で元金が割れるリスクを負担しなくても済む。

(b)人為的低金利政策
 人為的低金利政策は金利規制と店舗規制によって支えられていた。1947年に制定された「臨時金利調整法」により、金利が法的に規制された。金利を人為的に低く保つことによって生じる既存の金融機関の間での競争に対して、店舗規制によって競争を調整した。大蔵省は、いわゆる「一県一行主義」の徹底化をめざして、金融機関の整理を遂行した。その際、経営基盤が比較的弱い中小金融機関が優遇された。その結果、1935年末に466行あった普通銀行数は1941年末には186行にまで減少した。さらに、1945年末には、61行にまで激減した。主要な銀行の実質的な構成は、この当時から現在に至るまで、ほとんど変化していない。
 この結果、いわゆる資金偏在現象が生じた。中小金融機関は店舗面では優遇されたために預金は集まったものの、営業基盤が地域的に限定されているため、大企業を顧客にもたず、必然的に余剰資金を抱えることになった。これが、銀行間市場を通じて都市銀行に流れていった。旧財閥系銀行を中心とする都市銀行は、基幹産業と強く結びついており、吸収した資金を重点的に基幹産業に流した。
 さらに、日本興行銀行を中心とする長期信用銀行は、債権発行についての独占的地位をもち、地方銀行・相互銀行・信用金庫等が集めた資金を金融債で吸収して、基幹産業に流した。

(c)金融統制体制の完成
 1939年に「会社利益配当資金融通令」が施行されて、大蔵大臣が日本興業銀行に対して、融資などの命令ができるようになった。興銀を通じる命令融資制度によって、政府が資金の配分をコントロールできるようにした。1941年には、興業銀行を中心とした「時局共同融資団」が設立された。これは、メインバンク制のはじまりといわれている。1942年には「金融統制団体令」によって「全国金融統制会」が設立され、これによる共同融資が大規模になされた。同年には、「日本銀行法」も改正され、金融統制体制が完成した。
 1940年体制によって確立された金融システムは、基幹産業と輸出産業に資金を重点的に配分することによって産業構造を大きく変化させ、消費関連の軽工業の比率が低下し、重化学工業の比率が上昇した。

(4)株式配当の規制
 日本の企業は、株主のための利潤追求の組織というよりは、むしろ、従業員の共同利益のための組織になっている。日本的企業における企業と従業員との関係は、単なる一時的な労働契約ではなく、運命共同体的な性質を帯びている。これは、日本の文化的・社会的な特殊性に根差すものだと説明されることが多い。しかし、戦前においては、日本でも経営者は会社の大株主であり、企業は株主の利益追求のための組織だったのである。それが大きく変わったのは、戦時体制下である。
 1938年に「国家総動員法」がつくられ、国民生活が圧迫されるなかで、それまでのような高い配当は所得分配の観点から望ましくないとの考えが強まった。このため、1939年に国家総動員法にもとづいて施行された「会社利益配当及資金融通令」によって、企業の配当に規制が加えられることとなった。1940年には、「会社経理統制令」が制定され、配当統制がさらに強化された。さらに、役員賞与についても規制が加えられた。また、役員の構成も変化し、内部昇進役員の比率が高まった。こうして株主の権利が制限され、従業員の共同体的性格をもつ企業が形成されていった。また、終身雇用制や年功序列賃金体系も、その原型は第一次大戦後にあったが、戦時期に賃金統制が行われたことによって、全国的な制度に拡大した。

(5)終身雇用と年功序列型賃金を軸にした「日本型」の雇用慣行
 労働市場も、もともとは、かなり自由な市場であった。明治期の熟練機械職人は、全国を股に飛び回っていたといわれる。
 第一次大戦以降、本格的な工業化が進むなかで、企業の形態は徐々に変質してゆく。ホワイトカラーの登場や企業独自の技術を駆使する必要性を反映して、雇用が長期継続化した。また、労働紛争の高まりに対応して、企業経営者は採用を慎重に行い、移動を抑制して勤続を奨励するような報酬体系を導入するようになった。大正期には、有名会社の正社員とよばれた職員たちの給料には、年功的原理が導入されていた。また、工員についても、昭和の初期以降には、大企業の場合には年功的要素が導入されてきた。
 政府は物資、物価の統制令を施行し、生活必需物資の公定価格を定めた。1939年3月には、初任給が公定されることになり、9月からは、賃上げを建前として認めないという賃金統制が行われた。この例外は、従業員全員を対象にして一斉に昇級させる場合とされた。これによって、定期昇給の仕組みが定着した。さらに、実態調査にもとづいて、初任給から昇給額までが政府によって決定されるようになった。このような過程を通じて、年功序列賃金と勤続による昇進が全国的に普及したとしている。
 
年功序列賃金というのは、ネズミ講と同じ原理なので、これを継続するには、中高年労働者と若年労働者の比率を一定に維持しなければならない。そのためには、企業は常に成長していなければならない。企業の目的は、利潤追求ではなく、成長そのものになる。このためには、資金を借り入れで調達することが必要であり、また、有利でもある。こうして、日本型経営システムと間接金融は、密接に結びつくことになる。

(6)企業別の労働組合
 先進諸国では、一般に産業別組合が典型的な労働組合組織となっているのに対し、日本では企業別労働組合がほとんどで、産業別組合という場合も、企業別組合を単位とする連合体組織である。この原型も、戦時経済期にそれまでの労働組合が解散され、労使双方が参加して組織された企業ごとの「産業報国会」に見いだすことができる。
 1937年に
産業報国会がつくられた。これは、労使双方が参加して事業所別につくられる組織であり、労使の懇談と福利厚生を目的としたものであった。内務省の指導によって産業報国会は急速に普及し、労働者の組織率は、1938年ですでに4割をこえた。日本の組合が企業別組合として結成され、現在にいたっているのは、戦時中からの産業報国会などの組織が衣替えして成立したからである。

(7)系列の誕生
 日本の製造業の大きな特徴である下請制度も、軍需産業の増産のための緊急措置として導入された。日本の大企業は、もともとは部品に至るまで自家生産する方式をとっていた。それが、戦時期の増産に対応するための緊急措置として下請方式を採用するようになった。1960年代の末にトヨタに部品を納入していた子会社の40%以上は、その下請関係を戦時期に築いていたという。

(8)許認可制度の前身
 36年には「自動車製造事業法」が制定された。この後、37年から41年にかけて、「人造石油事業法」「製鉄事業法」などの産業別の「
事業法」が次々と制定された。事業経営を許可制とし、事業計画も許可制とする。これらを通じて、企業は政府の監督や統制を受け、また、設備の拡張、生産計画の変更などの命令も受けることになる。41年8月には「重要産業団体令」が制定された。これにもとづき重要産業において業界ごとのカルテルが結成され、会員企業に対する統制を行った。ここで戦後の政府と業界団体との関係の原型が成立した。

(9)革新官僚の登場
 官僚制度は明治以来の伝統をもつが、官僚の発想法、官対民の関係、そして税財政制度などは、明治以来一貫して続いてきたわけではない。その性格は、戦時期に大きく変貌した。現在に引き継がれているのは、その断絶後の部分である。
 それまでは官僚が民間の経済活動に直接介入することは少なかった。しかし、1930年代の中頃から、多くの業界に関して「事業法」がつくられ、事業活動に対する介入が強まった。さらに、第二次近衛内閣の「新経済体制」の下で、より強い統制が求められるにいたり、「重要産業団体令」をもとに「統制会」とよばれる業界団体がつくられた。これらが、官僚による経済統制の道具となった。また、
営団、金庫など、今日の公社、公庫の前身も、この時代につくられた
 一般に、1936年の2・26事件以降の日本社会では、軍部によるファシズム支配が確立されたといわれている。この時期に重要な役割を果たしたのが
革新官僚」である。
 革新官僚とは、内閣調査局が企画庁となり、さらに日中戦争の全面化とともに、資源局と合して企画院に発展する過程で、総動員計画の作成にあたるようになる経済官僚のことである。1937年に設立された内閣企画院が革新官僚の活躍の場であった。
当時、革新官僚とは、岸信介商工次官、星野直樹企画院総裁ら、すでに満州国での経済統制の経験をもつ高級官僚と企画院の実務を担当している前記の奥村や、美濃部洋次(商工省)、毛里英於測(大蔵省)、迫水久常(大蔵省)らの中堅官僚をひとまとめにした呼称として使われている。
 革新官僚とよばれた官僚群は、
「企業は利潤を追求するのではなく国家目的のために生産性をあげるべきだ。」と主張した。このため、企業の所有と経営の分離、古典的な所有権概念の修正などの主張がなされた。革新官僚によって作成・推進された〈経済新体制確立要綱〉は、企業の公共化、ナチス的な指導者原理の導入による統制機構の確立、利潤の制限などを骨子とするものである。企画院に共産主義の影響ありとする企画院事件(1941)は、こうした革新性をけん制する意味をもつ。彼らが主張した政策は、戦後に引き継がれる。

3.無傷で生き残った官僚機構
 敗戦後、軍部は解体され、財閥に対しては財閥解体がなされた。警察制度をはじめとする内務省関係については、日本側の強い抵抗にもかかわらず、強引ともいえる改革がなされた。内務省以外の官庁はほとんどそのままの形で残った。しかし、経済官僚については手付かずで放置されてしまった。人事の年次序列も完全に維持された。地方自治がうたわれたにもかかわらず、財源は依然として国に集中されたままであった。
 官僚機構が無傷で生き残った第一の理由は、占領軍が直接軍制ではなく、日本政府を介して行う間接統治方式をとったことにある。中央政府の徹底的な解体が行われたドイツとは大きく異なっている。

4.ようやく行き詰まった戦時体制
 戦争遂行や経済成長など、単一目標のための国家総動員体制であるという点において日本は戦時体制がいまだに続いている。この点で日本は、同じく枢軸国であったドイツやイタリアとはきわめてて異なる。
 40年体制の基本的な思想は、「
生産優先主義」である。生産力の増強がすべてに優先すべきであり、それが実現されればさまざまな問題が解決されるという考えである。戦後の高度成長期においても、この考えが支配的だった。つまり、経済が成長すればその成果として人々の生活が豊かになるはずだという考えが社会的なコンセンサスを得ていた。「仕事がすべてに優先する」という「会社中心主義」が盛行した。
 戦争に勝つためのシステムを経済に勝つためのシステムに活用して日本は成功を収めた。そして現在、経済成長を終えた日本に顕在化したさまざまな弊害の原因もまたこのシステムである。

引用文献
1940年体制―さらば戦時経済』野口 悠紀雄、東洋経済新報社、2002



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