うまいことやってるわね、アンタ。 妬みは社会を破壊する

1.岡部直三郎大将の炯眼
 太平洋戦争(大東亜戦争)の中国の北支方面軍(北京)、第六方面軍司令官(漢口)等々を勤めた岡部直三郎大将が、敗戦後、上海の独房の抑留生活の中で書いた「道徳論」には以下のような記述があるという。「岡部直三郎大将の日記」(芙蓉書房 昭和57年発行)(将門webから孫引き)

(前略)要するに
ソ聯は、大衆を利用して共産党の首脳部が、野望を遂げたまでのことである。若しそれ日本の共産主義者が、ソ聯を模範とすべきであると考えるならば、それは日本国民救済という見地からすれば、認識不足であるか、或いは彼等はそれを問題にしないで、ただ野望の達成が眼目である。これ即ち、反逆行為にあらずして何であろうか。彼等は戦争中、罪なき日本国民を裏切りながら、終戦と共に意気揚々として臆面もなく裏切った国民の前に現われ、外国の庇護の下に国家を救うなどと、憂国の士面(づら)をする。その厚顔無恥はあきれる外はない。彼等は国家国民のことを口にするが、実は野望達成の手段に利用しているのであって、今後も都合次第で国家を売り、国民を裏切ることを平気でするであろう。彼等のような行為をしたものは、、民主国のアメリカに於てすら、処刑を受くべきものであり、中国に於ても奸漢として断罪せらるべきものである。然るに今日本は、彼等の傍若無人の行動を看過せねばならぬ状態にあるのを、悲しむものである。

 筆者は、この分析の中に二つの重要な点をみる。第一点は、国を愛するとはどういう事かという点、もう一つは、権力欲成就のための大衆利用こそ共産革命の実態であるという点である。第一の点については後日論じることとし、今回は第二の点、則ち共産主義者が権力奪取の過程において如何なるやりかたで大衆を利用するのか、そしてそれが如何なる結果をもたらすのかについてて論じてみることにする。

2.大衆の劣情を組織して貴族となった共産党員
 共産主義国の悲惨で醜悪な実態が暴露されてしまった現在においてすら、善男善女は、共産主義とは公平を追求し、平等を主張しするユートピア思想であるとか、貧富格差のない世界、上下関係や主従関係のない世界、差別のない世界を造るというのが、共産主義の目標であるとかといった幻想を抱いている。
 ところが、マルクス、レーニンの「理想」を元に、築かれた国家では、指導者は神にも等しい存在としてあがめられ、一方貧富の差は相変わらずであったのだ。
旧支配層に対する大衆の不満や憎悪そして妬みなどの劣情を組織し、「我々の運動は『平等』を目指しているのだ」と大衆を幻惑させながら、「自分は人の上に立ちたい、人を支配したい、自分は大衆とは違った優れた人間として扱われたい」との思いを実現させようとしたのだ。共産党の「指導者」達は、無一物の大衆を煽動し、命をなげうって旧支配層と戦わせた挙げ句に自分たちが新たな特権貴族になろうとしただけに過ぎない。そして、その実現がライバルによって妨げられようとしたとき今度は、嫉妬に基づき「あんなヤツは殺してもかまわない」と思うのである。共産主義国家や共産主義集団で起こっていたことはそういうことである。

3.共産中国の縁故主義と共産貴族
 いま中国では「政治改革を急がねばならない」という意見が多いという。政治改革の中身は「公正の実現」だそうである。市場経済化の過程で、中央や地方の共産党と政府の幹部やその家族が「濡れ手にアワ」の形でおいしい思いをしているのだそうである。「権力」や「地位」を握っている共産党員がその特権をフルに利用しているのである。まさに「ネポティズム(Nepotism:縁故主義)」万能の社会である。市場経済化に際して、急激な経済成長は、階層分化を加速し、今、中国社会は不満や妬みをはじめとする様々な心理が複雑に渦巻いているという。江沢民によれば、「今後の共産党は資本家や豊かな中産階級を共産党内に引き入れる」そうである。かって、大衆の劣情を組織して知識階級を大弾圧した「文化大革命」の党、プロレタリアートの党だとばかり思っていた共産党がブルジョアジーの「前衛」になるのである。

4.野坂三造と妬み
 もと日本共産党議長、野坂参三はコミンテルン(国際共産党)に宛てた手紙で当時野坂参三と同じく共産党の有力指導者であった山本懸蔵がトロツキストのスパイであるとうそをつき、結果、山本懸蔵は銃殺された。山本懸蔵は野坂のライバルであった。自分より勝れた能力、自分より高い人気、山本懸蔵の共産党における地位、それらに
野坂は妬みの炎を燃やして同志を売ったのである。そして、野坂はなんと百一歳の長寿を全うした。

5.旧来の陋習と左翼文化人のまき散らす似非平等主義との結合
 さて、日本社会というのは、理性ではなく情動のみによって動く社会すなわち「村社会」である。情動は不合理で動物的、利己的な感情、すなわち妬みそねみや怨嗟によって形成されている。村社会では「言葉」はほとんど意味を持たない。
正々堂々とした議論の出来ない輩が卑しい妬み、嫉みでまったく卑劣きわまりない「情の共同体」を組織している。しかし、日本の伝統的な「村社会」には、長幼の序をはじめとする「秩序」や「掟」があったし、「恥の文化」が存在していた。ところが戦後の「民主化」と左翼文化人大衆の妬み僻みなどの劣情を組織した「似非平等主義=結果の平等の追及」の大宣伝によって、恥の文化はまったく消失し「恥知らずの文化」になってしまった。親の恩や教師の恩、社会の恩などは全く等閑視されるようになった。個人主義は利己主義と同じであるとの曲解が蔓延させられ、義理と人情はそれぞれ義理≡金、人情≡コネに変化した。結果、合理主義の悪い側面と伝統的村社会の因習が合わさり悪徳だらけの村社会に変貌してしまった。日本の伝統的村社会の弱点を左翼は巧妙についた。そして今日本社会は崩壊の過程をばく進しているのだ。

6.大衆の妬みを悪用した学歴有害論とそれがもたらす不平等
 「民主教育」によって、能力の違った子供達を無理矢理に均等化する
「無競争教育」が「平等な教育」であるとされ、努力する者としない者とに差をつけてはならないとされた。「努力もせずに人を妬むべし。」が大衆を絡め取る左翼野郎のスローガンである。
 能力とやる気のある者に門戸を開こうという学歴無用論が左翼似非文化人によっていつの間にか学歴有害論へすり替えられ、
多くの低学歴者の妬みを刺激して「勉強は悪徳である」との説があたかも常識のようにまかり通るようになった。勤勉な者が「ガリ勉野郎」と蔑まれる一方で、怠惰や非行が個性とされる「生徒の個性に合わせた教育」が出現した。結果、日本の青少年は、世界一恥知らずで無気力になってしまった。「茶髪も個性である」「個性を押しつぶす教育は正しくない」との左翼文化人様のご意見がとおり、規律がなくなった学校では、髪は茶髪やモヒカン刈り、スキンヘッド、厚化粧、鼻にはピアスがあたりまえになった。学級崩壊が日常化し、教室は暴力と恐喝が白昼公然と行われる無法地帯と化してしまった。クズ野郎を退学にも停学にもできず、先生が生徒を殴るのはいけないが、生徒が先生を殴るのは何の問題もないという阿呆な常識がまかり通る。いま公立学校の卒業式では、「仰げば尊し」を歌わないところがほとんどだという。「身を立て名をあげる(※)」のは、「立身出世主義」だからいけないという。生徒は大志を抱いてはいけないというのだ。
 今や公立高校の進学実績は見る影もない。昭和40年代初めに、毎年、東大に100人以上も合格させていた、日比谷高校ですら、ここ10年ほどは、2〜3人の合格がやっとという。我が子に十分な教育をつけさせようと思えば有名私立に進学させねばならないという恐るべき状態が出現している。高収入・高学歴の両親を持つこどもが一流の進学塾にかよい、親は塾への送り迎えこどもは超人的な努力という親子ともどもの努力によってようやく合格できるというのが有名私立中学入試の現状なのである。
社会のごく一握りのほんとうに恵まれた子供だけが、有名私立中学から、一流大学に進学できる。実際、日本一親が高収入な大学生は東大生である。
 今こそ庶民は左翼の似非平等主義者による社会破壊と戦わなければならないのではないだろうか。

(※)『孝経』
「身體髮膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也。立身行道、揚名後世、以顕父母、孝之終也。」



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