日本人の成り立ち(欧米学者の一般的理解)

1.陸橋からの渡来
 
本は、いつも島であった訳ではない。氷河時代に、日本列島は陸橋によって大陸に接続されていた。北海道がシベリアに接続され九州は朝鮮半島に接続されていた。約紀元前30,000年、石器時代の人類は、彼らがアメリカへベーリングの陸橋と横断したのとほとんど同じ方法でこの陸橋を横断した。
 そして、約紀元前10,000年、これらの先住民は、数千年間続いた独自の文化を発展させた。すなわち縄文文化である。縄文とは「縄の模様」を意味する。それは、この人々がかれらの土器に縄目模様をデザインしたことに由来している。彼らの土器は人類の歴史における土器の種類の中で最も古いものである。土器は新石器時代の民族の特徴である。しかしながら、縄文人は中石器時代の民族であった。すべての証拠は、彼らが非常に小さな集団で生活する、狩猟採集、漁労社会だったことを示している。彼らは、さらに女神崇拝を背景とするのかも知れない不可解な女性の小像を作った。
 1万年は何といっても、長い年月であり時間と共に大きく文化は変化する。そこで、縄文時代は6の個別の時代に分割される。すなわち、草創期、初期、前期、中期、後期、晩期である。

2.人類史上初の土器製作
 
創期縄文時代(紀元前10,500年〜紀元前8,000年)は、私たちに土器破片だけを残した。これらの土器破片は、関東平野に住んでいる民族によって作られた。多分それは、小さく丸い壺だった。草創期の縄文時代の壺は、人類の文化の理解に対する大きな課題である。というのは、それらはメソポタミアの土器に先行すること2000年以上、人類の歴史上まさに最初の土器であるからである。標準的な人類学は、土器製作が農業の後に発展しより定住性の文化の特性である、と主張する。しかしながら、草創期縄文時代人は、放浪の小集団に生きていた採集狩猟生活者であった。そして、農業が日本へ導入されるかなり前に、彼らは土器の芸術を発展させた。なんと草創期縄文時代人は、すべての人類が農業を導入する遙か以前に土器製作を発明したのである。それゆえ、草創期縄文時代は、土器製作が農業から独立した別個の人類の技術であることを実証しているのである。
 紀元前8,000年〜紀元前5,000年まで続いた初期縄文時代は、食物をゆでるために使用されたかなり完全な壺を残している。これらはただの簡素な壺ではなく、縄文時代を特徴づける「索状の」構造で詳細に飾られている。

3.温暖化と原始農業の発明
 
元前5000年〜2500までの縄文時代前期は、人類の歴史に共通の最も興味深い2000年に相当する。最後の氷河期の終わり、約14,500年前に、世界はゆっくり暖まり始めた。紀元前5000年と2500の間に、世界は、氷河期に続く千年間において最も暖かくなった。地球の安定した温暖化に対応して、人類の中で最も重要な発明である農業が開発された。また、人類の居住に関する驚異的な革新が起こった。世界中の人類がより定住性の様式に世界中で生活し始めたのはこの期間であった。この期間の初めに、人類は実質的に村の大きさで生活し始め、この期間の終わりごろ、まさに人類最初の都市が現れる。縄文人もこの世界的な現象の例外ではなかった。他のすべての人類から完全に遮断されて、縄文人もまた、定住性の生活様式で大きな村に住み始めた。これらの村は大きな竪穴式住居から成った。これらの家の床は地上より約1フィート下にあった。彼らは大家族で生活したようである。縄文人は、さらに、彼らの土器製作を発展させた。彼らは小像を作り始めた。
 縄文時代中期、紀元前2500-1500年、縄文人は、関東平野から周囲の山腹へ移動する。エジプト古王国がピラミッドを造り、黄河流域に中国最初の中央集権国家が出現し、そして、シュメール人がまさに最初の都を構築している間に、列島の外側の人々を知らないでいたであろう縄文人は、非常に大きな村に住み始め、非常に単純な農業あるいは原始的な農業を発展させた。彼らはもはや採集狩猟生活者ではなく、むしろ、見事な装飾を備えた精巧な美術作品をますます発展させた特殊技能を身につけた定住性民族であった。

4.寒冷化と宗教の発展
 
期(1500-1000)そして晩期(1000-300)縄文時代は、新氷河形成段階に一致する。世界は、顕著に冷え今日より寒くなった。この時期に縄文人は宗教を発展させた。彼らは、著しい数の小像を生産する。また、主な村の外で構築された環状列石が現れ始める。彼らが生産する小像は大部分は女性の小像である、それは縄文時代の宗教が女神宗教だったことを示唆する。

5.弥生人の渡来
 
文文化、本質的に、中石器時代文化(彼らは土器を作るような新石器時代の特性を表示するが)は、B.C.11世紀から本土からの移民の波によって置き換えられた3世紀まで日本で繁栄した。これらは弥生人であった。そして、彼らの起源は中国の北にあった。中国北部はもとは森林、流水および降雨でいっぱいの温和で繁茂した場所であった。しかしながら、それは、西暦紀元前数千年に、外に乾き始めた。この乾燥、それは世界で最大の砂漠のうちの1つ、ゴビ砂漠、を結局うみだした、は、南と東の先住民を追いやった。これらの諸民族は朝鮮へ押し寄せ先住諸民族に置き換わった。結局、これらの新しい入植者は、中国北部からの移住の新たな波によって置き換えられ、そして、彼らのうち多数が日本列島へ渡った。この理由のために、ほとんどの言語学者によれば、中国北部の言語、朝鮮の言語および日本語は、同じ語族の中にすべてある。さらに、モンゴル語(中国北部で話されている)がこの語族の一部であり、さらにモンゴル人が遙か西方に世界征服したので、日本語が属する語族が日本からヨーロッパへ地理的な地域を横切って話される。この語族の中の最西の言語は、ハンガリーで話されているマジャール語である。また、この語族の中の最も東にある言語が日本語である。

6.農業、金属器、新宗教
 
生人は彼らで農業、青銅と鉄の道具、およびはるかに後になって神道と呼ばれるようになる新しい宗教をもたらした。彼らの移住が原住民に何をもたらしたかについては、いくつかの可能性がある。日本で広く受理されている理論によれば、弥生の移住者の波は非常に小さく、彼らは新技術をもたらしはしたが、彼らは全て在来の縄文人に同化した。この説明によって、特に神道によって代表される日本の文化は太古からの日本固有のものである。
 ごく一部の日本人研究者は、縄文人がアウストロネシア語を話していた、すなわち、縄文人は、より密接に南の太平洋の島人と関係があったと考えている。西洋の歴史家は、弥生人が先住縄文人に置き換わった、したがって永久に縄文文化を終了させた、と信じている。弥生人は先住民の言語、社会様式および宗教を置き換えた。この考え方では、日本文化が中国北部および古代朝鮮に由来する外国の輸入品ということになるが、現代の日本人にはあまり人気がない考え方である。
 日本の文化の源が何であっても、日本の言語、社会構造および宗教は弥生の移住者より以前までさかのぼるができないことは明らかである。それゆえ、実質的に弥生文化は、日本の文化における新たな始まりである。これらの新しい移民によって日本の文化は劇的に変えられた。8000年間の文化的平穏は、農業の時代へと劇的に飛躍したのである。



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