(その二) ゾルゲ事件 ゾルゲ

 ゾルゲ事件とは、太平洋戦争直前のスパイ事件である。リーダーのゾルゲは、ナチス党員をよそおったソ連のスパイで、駐日ドイツ大使館を舞台として情報を収集、日本軍部の動向をさぐるとともに、ドイツの軍事機密情報をソ連に送り続けていた。

(1)近衛文麿の述懐 近衛文麿

 昭和12(1937)年6月の第一次近衛内閣成立の1ヶ月後に日華事変が勃発している。第一次近衛内閣の後、平沼、阿倍、米内内閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦には不介入の姿勢を保っていた。ところが、第2次近衛内閣が成立した昭和15(1940)年7月以降、日本は日独伊の三国同盟締結、仏印進駐とアメリカとの全面対決に向かって決定的な道を歩み始める。
不思議なことに近衛内閣の登場のたびに、日本は大きく戦争へと向かっている。近衛は、その当時を振り返って、「見えない力にあやつられてゐたような気がする」と述懐している。
 昭和20(1945)年2月14日、近衛は天皇に以下のごとく奏上した。
「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有之候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候。」
「これを取り巻く一部官僚および民間有志は(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候。」

(2)ゾルゲ
 リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge 1895〜1944)は、ドイツ人を父とし、ロシア人を母として、現アゼルバイジャン共和国バクーに生まれた。3才のとき家族とともにドイツに転居、少青年期をベルリンで過ごした。ハンブルク大を卒業したのち社会学博士となる。ゾルゲは第一次大戦のとき志願兵となり前線へ送られ負傷。片脚が2センチほど短くなったという。
 除隊後、社会民主党さらに共産党へ入党、党の情宣活動に従事した。1924年、ゾルゲはドイツ共産党の指令でモスクワに向かう。
「全人類が待ち望んでいた社会悪の浄化と、貧困・不正・不平等に侵された世界の根本治療とはこのことではないのか」
 ゾルゲはマルクスレーニン研究所に所属、コミンテルン(国際共産党)の仕事につく。1930年〜33年”社会学雑誌”特派員として上海で諜報活動を行い、そのとき尾崎秀實(ほつみ)を知る。1933(昭8年)一旦モスクワに帰り、日本派遣を命ぜられる。ナチス党員に化け「フランクフルターツアイトゥング」紙の特派員として来日。ゾルゲは日本での諜報活動網を確立すべく、慎重にメンバーを選定した。メンバーの一人である尾崎秀實は後に近衛内閣のブレーンになる。
 ゾルゲは日本文化の研究に精力を注ぎ、やがて、日本通としてドイツ大使の私設情報担当となり、大使館内に一室を与えられ日本の情報分析の相談役になった。その間、尾崎とも緊密な連携をとって、日本の政治、外交、軍事に関する情報の入手とソ連への通報に努めた。

(3)尾崎秀實

(a)ゾルゲとの出会い
 尾崎秀實は朝日新聞社の特派員として上海に駐在中に多くの左翼人士と交わり、マルクス主義の信奉者になった。尾崎はアメリカ人左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを通じて、ゾルゲと知り合った。

(b)コミンテルンの世界戦略 第7回コミンテルン大会

 コミンテルンは第6回大会で、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と決議していた。日独と米英の間での「帝国主義戦争」が始まれば、共産主義者の祖国ソ連は安泰であり、また敗戦国ではその混乱に乗じて、共産主義革命をすすめることができる、という戦略である。
 1935(昭和10)年8月の第7回コミンテルン大会では、中国共産党と国民党が手を組み日本と戦うという方針が決定された。蒋介石はもちろん、毛沢東でさえも知らない決定だった。中国共産党に対して、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことが命ぜられた。中国共産党は8月1日「抗日救国宣言」を発した。一切の国内闘争の即時停止、全面的抗日闘争の展開を企図したのである。これは中国を使って日本軍をソ満国境から遠ざけようという戦略である。
 1936(昭和11)年12月に、突如として西安事件が起こった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣言」に呼応した腹心・張学良に西安で監禁されたのである。周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉を行った。以後、蒋介石は共産軍との10年におよぶ戦いを止め、国共合作が実現した。その後、日華事変、太平洋戦争(大東亜戦争)と事態はソ連の思惑通りにすすめんでいくのである。
 コミンテルンの指示を知っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否が不明の段階から、「中央公論」に「蒋介石が今後の国共合作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表した。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家としての地位を固めた。

(c)尾崎らによる国家中枢世論の誘導
 1937年(昭和12年)の4月ごろから尾崎は「昭和研究会」に入り、「支那問題研究部会」の中心メンバーとして活躍していた。この「昭和研究会」は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制をつくり上げた中心機関である。
 昭和13年4月、尾崎は朝日新聞社を退社、近衛内閣の嘱託となる。首相官邸の地階の一室にデスクを構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。
 尾崎は「中央公論」14年1月号に「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」を発表した。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表する。
 尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。
「僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(重慶へ移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権をつくり上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地につくり上げて、日本自身がそれによって消耗する面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新しい---それこそ僕等の考へている東亜共同体−−本当の意味での新秩序をその中から纏めていくといふこと以外にないのじゃないか。」
 尾崎は、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとしたのである。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようという計画であった。
 1940年(昭和15年)6月、近衛は本格的に新体制運動に乗り出す。麻生久の社会大衆党、赤松克麿の日本革新党、中野正剛の東方会などの革新勢力を結集し、前衛政党的な新政党を結成しようとした。7月に第二次近衛内閣が成立し、10月に新体制運動の中核体として、「大政翼賛会」が発足した。

(d)尾崎らによる日中和平妨害工作
 尾崎は国内世論を誘導するだけでなく、和平の動きそのものも妨害した。蒋介石以下の国民党首脳部と親しい間柄にあった茅野長知は、上海派遣軍司令官・松井石根大将の依頼により、昭和12年10月ごろから、日中和平に乗り出した。昭和13年4月には即時停戦、日本の撤兵声明発表などの合意にいたった。近衛首相も板垣陸相も承認して、この線で和平実現に努力することになった。茅野は国民党政府と接触し、5人の代表を東京に派遣することとなった。
 しかし、茅野が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、板垣陸相の態度は急変「支那側には全然戦意はない。このまま押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦声明を出したり撤兵を約束する必要はなくなった」という。
 茅野が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の用意ができている。そんな情報はどこから来たのか」と問いつめると、板垣陸相は、同盟通信の上海支局長をしていた松本重治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接聞いたという。松本重治は尾崎の年来の友人であり、共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相のブレーンともなった人物である。
高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ無条件降伏する」と伝え、蒋介石には「中国があくまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という偽りの電報を打っていた。こうした謀略によって、茅野の和平工作は水泡に帰し、その後、高宋武、松本重治、尾崎らによる汪兆銘政権樹立の動きとなっていく。
 国民党副総裁であった汪兆銘は、蒋介石にコミンテルンの謀略に乗った抗日戦争を止めさせるよう願っていた。尾崎らは、その汪兆銘を担ぎ出して親日政権を作らせ、それを以て日本と国民政府の戦いを続けさせようというたくみな謀略をしくんだのである。
 近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツを仲介国とする交渉を行ってきたが、昭和13年1月には新たな親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府を相手にせず」という第一次近衛声明を発表していた。同年11月、近衛は日本・満洲・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第二次声明を発表。これは尾崎らの「東亜共同体」構想そのものである。この声明のなかで「国民政府といえども従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるに於ては、敢へてこれを拒否するものにあらず」と汪兆銘の動きに期待した。
まさに「見えない力にあやつられてゐたような気がする」という近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎の描いた筋書きに完全に乗せられていたのである。

(e)売国奴の正義
 尾崎は、当時の近衛の嘱託という立場を利用して政策決定に影響を加えた。ゾルゲ・グループのもたらした情報はソビエトが対独戦を戦うえで不可欠であった。1941年10月、日米開戦の予告をモスクワに通信したのを最後にして、彼とそのグループは検挙され、彼らのほとんどが終戦をまたずに刑死・獄死した。ゾルゲには1964年「ソビエト連邦英雄」の称号が贈られた。
 ゾルゲや尾崎秀実や日本共産党の戦前の反日活動が、反戦平和活動だったなどと言う笑止千万なことをいう輩がいるようだが、彼らはソ連の野望のための下働きにすぎなかったのである。
 尾崎は「中央公論」昭和14年1月号に「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」を発表した。そのなかで尾崎は、「東亜に終局的な平和を齎(もたら)すべき『東亜における新秩序』の人柱となることは、この人々の望むところであるに違ひないのである。」とのべている。
 尾崎の狙う「東亜共同体」とは、共産革命後に成立するソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。尾崎には、革命後の「終局的な平和」のために、国民をだまして「人柱」にすることなど、なんともなかったのである。



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