疑似歴史学(3)

W.「縄文弥生連続説」の仮説系
1.日本列島には元来縄文人が居住していた。
2.B.C.350ごろ中国大陸のあるいは朝鮮半島から九州北部に水田稲作と金属器の文化(弥生文化)が伝わった。
3.大勢の人間がやって来たわけではない。
4.征服が行われたわけではない。
5.縄文人の自発的な意志に基づく文化の導入が行われた。
 @北部九州の縄文人はB.C.350頃、弥生文化を取り入れようとする意志を抱いた。
 A弥生文化を持った少数の人たちが北部九州に漂着した。
 B北部九州の縄文人達は弥生文化を教えてくれる先生を招いた。
  北部九州の縄文人達は半島や大陸に留学生を送り込み弥生文化を学習させた。
  北部九州の縄文人達は、一種の技術奴隷として弥生人を拉致してきた。
6.弥生文化は短期間の間に関東以南にすむ縄文人達に学習された。
 ・弥生文化を最初に導入した九州北部に近接する地域の縄文人が学習し、さらにそこに近接する地  域の縄文人が学習するというように漸進的な学習がなされた。
7.縄文時代人と弥生時代人、古墳時代人の形態上の著しい相違は、狩猟採集経済を基本とする石器時代の生活から、稲作農耕に依存する金属器時代の生活への転換に付随する租借力・筋力の節約がもたらしたものである。

「縄文弥生連続説」のストーリー
日本は四方を海に囲まれた島国であるから、日本列島はいつの時代にも「日本国」にほかならない。そして、そこに住んでいた人々はつねに「日本人」であった。「日本史」を作ってきたものは太古の昔から常に「日本人」であって帰化人が文化を携えて来たことはあっても外来者が日本人に取って代わることなどは決してなかった。

 日本には早期旧石器時代人(原人)が住んでいた。その子孫が中期旧石器時代人(旧人)である。さらにその子孫が後期旧石器時代人(新人)であり、そのまた子孫が縄文人である。
 縄文人は、木の実を集め、魚を捕り、貝を採集し、猪を狩る狩猟採集の生活を営み山や川巨石のなど万物に神が宿るという信仰を持って生活していた。
 ある時、縄文人は急に思い立ち、時々漂流してくる大陸の人たちから水田稲作を教わり、青銅器や鉄器などの金属器の製造法を教わった。さらに時々は大陸や朝鮮半島に留学してその文化を学んだり、大陸から技術者を招聘して皆で先進文化を学習した。一種の技術奴隷として弥生人を拉致してきた事もあったかも知れない。米を保存する高床式倉庫の建築法を身につけ、稲作文化の一部として鳥居をもち金属器をご神体とする神道を生みだした。そのようにしていわゆる弥生文化を身につけた縄文人の子孫達は、短期間に村を作り、国を作った。しかし、縄文文化と人口の中心であった東日本の人たちは稲作が不向きなためか米の味が気に入らなかったためか、現状の生活に満足していたためかははっきりしないが、同じ縄文人でありながら弥生文化をすぐには受け入れなかった。縄文時代人と弥生時代人、古墳時代人の形態上の著しい相違は、狩猟採集経済を基本とする石器時代の生活から、稲作農耕に依存する金属器時代の生活への転換に付随する租借力・筋力の節約がもたらしたものである。
 やがて西日本の人たちは奈良盆地の小さな村の長から次第次第に勢力を増してきた皇室の先祖を中心に大和朝廷をつくり東日本に盤踞する自分たちと同じ縄文人の子孫である蝦夷(エミシ)を征服していった。坂上田村麻呂に代表される征夷戦争の結果と平安朝のはじめまでに東北地方をその勢力下においた。なお、後の世に蝦夷(エゾ)と呼ばれたアイヌの人たちと蝦夷とは人種的に異なる。
 また、奴婢などの賤民は朝鮮半島から海峡を越えて日本に連れてきたのであって、征夷戦争の捕虜などの奴隷化は一部に過ぎない。特殊な技術を持った渡来人たちは一般の日本人たちに同化できず特異な集団を形成していった。

「縄文弥生連続説」への疑問
1.縄文人はなぜ突然水田稲作を取り入れようとしたのか。
 そのころ気候的な影響から縄文人達に食糧不足問題が生じていたためであるという。然なれば何故に、水田稲作なのか。中華文明の本流である麦作と牧畜でもいいのではないか。
2.なぜ、北部九州の縄文人から弥生文化が始まったのか。人口が多く文化の進んでいた東日本から始まってもいいのではないか。
 食糧不足は西日本特に北九州において深刻であった、また北部九州は朝鮮半島に近く行き来しやすかったからであるという。
3.弥生文化を持った少数の人たちが北部九州に漂着して水田稲作・金属器の文化を伝えたいうが、農民が海を漂流する機会が一体どれほどあるのであろうか。また、漂流したとして何故、籾種を保持して漂流したのか。さらに鉄山も銅山も存在しなかった列島でどのように金属器をこしらえたというのか。
4.北部九州の縄文人達は弥生文化を教えてくれる先生を招いたというが、文化を伝える側のメリットは何か。第一、その当時、技術者を招聘するほどの力を持った国や国王が存在していたのか。縄文人は横のつながりが農耕共同体とくらべて脆弱で国を形成できなかったのではないか。
5.北部九州の縄文人達は半島や大陸に留学生を送り込み弥生文化を学習させた。
これについても4.と同じ疑問が生じる。
6.北部九州の縄文人達は、一種の技術奴隷として弥生人を拉致してきたというが、低位の文化と遅れた武器しか持ち合わさず。しかも戦争の経験もないような縄文人が一体どのような方法で拉致してこられるというのか。アステカ文明、インカ帝国は、鉄砲と馬を持った少数のスペイン人にいとも簡単に敗れさったではないか。
7.弥生文化は関東以南にすむ縄文人達には短期間の間に学習されたのに、そこで長期にわたり止まってしまったのか。水田耕作に適してなかったとか、食糧が豊富であったからというが、組織だった抵抗がないならば徐々に北上してもよいのではないか。
8.弥生文化を最初に導入した九州北部に近接する地域の縄文人が学習し、さらにそこに近接する地域の縄文人が学習するというように漸進的な学習がなされた。なぜ他の地域の縄文人達は北部九州に直接学びに行かなかったのか。
9.縄文人と弥生人では呪術や宗教が違う。違った文化を自発的に取り入れた例として、よく明治維新が挙げられるが、そのときでさえ宗教まで導入したりはしなかった。また宗教的な対立は人類史上普遍的に見られる事であるが、なぜ縄文人はいとも簡単に宗旨替えしたのか。
 さらに、明治維新は欧米列強の東洋侵略の魔手が迫ったことが絶対的な条件となって起こったものである。決して内部的な要因で起こったものではないことに注意すべきである。また、関税自主権の喪失や治外法権の設定など植民地化の一歩手前で辛うじて保ち得た独立であったことに注意すべきである。
10.縄文時代人と弥生時代人の形態上の著しい相違が、生活習慣の変化で説明出来るというが、一体如何なる習慣が如何なる形質変化を起こすというのか。また、近代に入ってからでさえ米を食べられない国民が多かったというのに、弥生人の主食が米であったというのは本当なのか。木の実や肉を食べていると彫りが深くなり、米を食べると平らな顔になるのか。まさか「獲得形質の遺伝」などというとっくの昔に捨てられた神話を信じているわけではないと思うが、100年や200年の短期間、せいぜい4から10世代くらいで、人間の形質が変化するほどの「適者生存と自然選択」が働くものなのか。現代の日本人の中でも彫りの深い顔の人は結構多いが、それらの人は縄文時代人のような生活習慣を持っているのか。
11.縄文弥生連続説では、医学、生物学的な事実、遺伝子学的な事実を説明出来ない。



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