本当に売国奴はいなかったのか

 
頃、米ロの間で互いの諜報活動をめぐって外交官の追放合戦が演じられた。それを聞いて筆者は以前から不思議に思っていたことを思い出した。それは太平洋戦争(大東亜戦争)を巡る日米の諜報活動についての話を見聞きしたことがないということである。

 
パイ活動は東西冷戦時代だけではなく世界中で大昔から存在する。日本でも、戦国時代の「ラッパ」「スッパ」「クサ」等の間者が有名であるが、もちろんそれ以前からスパイ活動は存在していた。どこまで本当かは知らないが、公儀隠密がどうのという話は誰だって知っていることである。『孫子』には、諜報・謀略による情報収集や情報操作こそが戦争の中で最大の部分を占め、スパイこそ総ての戦闘員の中で最も重要な要員であるとある。更に国家権力の中枢にスパイを潜り込ませることの有効性を実例を挙げて強調している。日本の近代では、日露戦争の時、国力において圧倒的に劣位に立たされていた日本が、戦闘能力がつづく間に何とか戦争を終結にもっていくための手段の一つとして、ロシア国内の革命勢力に対する支援活動などのスパイ工作を行っていたことが知られている。また、第二次大戦に絡んでは、ソ連のスパイである「ゾルゲ」が駐日ドイツ大使館顧問としてスパイ工作を行い日独の重要機密をソ連に大量にもたらした。このゾルゲに協力したのが近衛首相のブレーンであった尾崎秀実である。政府や宮中の中枢に近い人物が「売国奴」であったわけである。

 
者がどうしても納得がいかないのは簡単に言うと、「ソ連のスパイ活動が展開されていてアメリカのスパイ活動が行われていなかったはずはないのではないか」と言うことである。アメリカと言えばCIAの諜報活動が有名であるが、NSA(国家安全保障局)やDIA(国防情報部)等もある。これらの組織の歴史についての詳細は知らないが、第二次大戦頃のアメリカに諜報組織がなかったわけはない。

 
口も多く資源も豊富で、経済力、工業力、それを支える科学技術力、それらに裏付けられた巨大な軍事力において日本の何十倍の国力を有するアメリカ合衆国を相手に、いくらがんばっても極東の地域大国になるのがせいぜいの「大日本帝国」が戦えばいかなることになるのか正常な神経の持ち主ならわからないはずはない。そのような無謀な戦争を始めた理由について「神国日本などという妄想にとりつかれた軍国主義者が神懸かり的な発想で始めた」とか、「ドイツの欧州に於ける勝利に幻惑された」とか説明されてもそうそう納得できるものではない。日本の指導者が「妄想」にとりつかれていたというのでは、政府や軍の上層部が「精神障害を病んでいた」ことになってしまうではないか。日本を泥沼の日中戦争に陥れ、中国に対して大きな利害を有する英国や中国進出に後れをとり虎視眈々と足場を築くことをねらっていたアメリカと対立するように仕向け、さらにはABCD包囲網によって日本が戦争をしないでは国家の存立さえ保てない状況に追い込んだものは誰なのか。本当に「馬鹿で無責任な」指導者のかびの生えた脳味噌に原因があるのか。筆者はとうてい信じることができないのである。当時の指導者だって、「こうすればああなる」くらいの思考力はあったはずだし、米英の意図や蒋介石の考えもわかっていたはずだと思う。日米が戦争をすればアメリカが早期に戦争を終結しようと思ってくれない限り日本の敗北は誰の目にも明らかであった。戦争が長引けば個々の戦闘に少々敗北したところで国力の大きい国が勝のは常識である。

 
者は、日本の指導者にアメリカの意図を読み誤らせた者がいたはずだと考える。それは誰なのか、もちろん筆者にもわからないが、日本をつぶして得をする国々がその黒幕の候補であることは容易に想像がつく。ソ連もそうであるし、太平洋の覇者をめざし中国への進出を図りたいアメリカも当然候補者である。筆者の想像では、第二次大戦に絡むスパイ活動をアメリカが日本に対して行っていないなどとは常識的に考えられない。「諜報戦のない戦争」など「燃えない火」と同じくらいナンセンスな言葉である。そして、米国への内通者は政府や軍さらには宮中の中枢にアクセスでき国策決定に影響する人物でなくてはならない。とすれば、そのような国家中枢に近い者の誰かが「売国奴」として祖国を敵に売り渡していたと考える他はないのである。敵は内にありである。

 
て、真珠湾攻撃は日本軍による騙し討ちとされ、"Remember Pearl Harbor!!"(真珠湾を忘れるな!!)が対日戦争において米国民を鼓舞する合い言葉になった。真珠湾攻撃の時ワシントンの駐米日本大使館では、転勤する外交官の送別パーティーをしていて、外交官井口貞夫と奥村勝蔵が日本からの暗号電報の解読をさぼったため、宣戦布告分の交付が遅れた。そのため日本の攻撃は卑劣な騙し討ちだとされたのである。全く信じられないようなお粗末さであるが、何と驚くなかれこのお二人さんは戦後ともに外務事務次官になっているのである。何であれほど日米関係が破局寸前であり、戦争の危機が切迫しているときに、送別会などが悠長にも行われ、更に暗号解読担当者がそれに参加していたのか不思議でならない。駐米日本大使館の何者かが売国奴であった可能性は十分に考えられる。他にも自己の利益のために祖国と同胞を売り渡し天皇の名誉を辱めた人間がいる可能性は十分ある筈だと思う。これまた不思議なことに、戦後一度として米国の対日諜報活動に関する報告も研究も報道されたことがない。可能性についての議論も聞いたことがない(※)。おそらく、戦後になって売国奴達は米国から直接あるいは間接にその報酬を得ているに違いないのにである。


「スパイの一番大きな目的は、相手国の国策を誤らせる事にある。(中略)とにかく大東亜戦争で日本は国際謀略というものに引っ掛かって敗北した。謀略に対して暗かったという、不明がある。決して物量に敗れたとか何とかというような簡単なものではないということを、諸君達は知っておいてよろしい」
安岡正篤続 人間維新―明治維新百年の変遷』郷学研修所安岡正篤記念館、2000)



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