奴隷制度の歴史−5

X.日本の奴隷制
日本でも古代から最近に至るまで、さまざまな形の奴隷制、人身売買が行われてきた。


【縄文時代】
 三内丸山遺跡東北部の墓域には列状に墓がならんでおり、なかには他にくらべてすぐれて大きいものがみられる。また、土器に入れられた者、穴に葬られた者の別がある。その明確な差は社会階層をしめすものであろう。さらに、北側の谷から人骨が発見された。墓に埋葬されず、ごみと一緒に廃棄された人がいたのである。さらに、集落構成の規則性や膨大な労力を必要とする巨大構築物からも、当時の縄文社会が、一般にイメージされているような自由で平等な社会とは異なっていたことが推測される。縄文社会においても奴隷が存在していなかったとは断定できないであろう。

【弥生時代】
 107年に倭国王帥升らは生口百六十人を」後漢の皇帝に献じており(『後漢書』東夷伝)、239年卑弥呼は「男の生口四人、女の生口六人」を議の皇帝に献じ、台与も「男女の生口三十人」を献じている『魏志』東夷伝倭人条(魏志倭人伝)。しかし、他のの東アジア諸国から「生口」を献じた例は。四〜五世紀からしか見られない。生口とは、本来は捕虜を指し、その多くは広義の奴隷とされたと推定されているものの、当時の邪馬台国には「生口」の他奴婢がいたことが記載されているため、生口が果たして奴隷であるどうかについては議論の余地がある。

昭和3年9月に、中山平次郎は「考古学雑誌」に『魏志倭人伝の生口』を発表した。この中で中山は、生口を日本初の留学生であると解釈したが、橋本増吉は同じ雑誌に同じタイトルで論文を発表し中山を批判した。橋本の生口論は、捕虜ではないが女王から贈り物として献上された特殊技能の持ち主達、例えば潜水夫のようなものである、とした。この後、二人の間で生口を巡る論争が行われた。途中、波多野承五郎が生口は捕虜であるとし、沼田頼輔がこれに賛同した。昭和5年3月に、市村讃次郎は生口論争に加わりこれを奴隷である、とした。直ちに橋本はこれを批判し、稲葉岩吉も市村説に反論した。しばらく論戦が続くが、しかしやがて橋本増吉は、生口は捕虜を意味しており奴隷の意味も併せ持っていると宣言する。

 近世のアフリカで、輸出用の奴隷を獲得する目的で部族間の戦争が激化したことはよく知れれている。弥生時代の倭においても、交易の品物としての生口を獲得するための戦争がなかったかどうかが課題である。

【古墳時代】
 大和朝廷は東北の未服属民を蝦夷、九州では熊襲、内陸部では土蜘蛛と呼んでいる。自分たちだけが人間で、他は動物という認識なのである。征服戦争の際に捕虜の奴隷化が当然のように行われたであろう。
 蘇我馬子と聖徳太子の連合軍に敗れた物部守屋の一族は奴婢とされて四天王寺に施入されたことが「日本書紀」に明記してある。
【奈良時代】
 「日本書紀」によると、大化の改新(645年)で良賤の別が定められた。中国の制度を模倣した律令体制の整備により、奴婢の身分が明確になり、良民と奴婢の間の子は奴婢の子とされた。奴婢の数は当時の人口の約10%といわれている。留意すべきは、良と賤の子は必ず賤、つまり両親の身分の低い方に帰属させることが決められたことで、身分制を維持するための施策と考えられる。これは大宝令にも受け継がれている。さらに「日本書紀」には大解除(おおはらえ)の祓柱(はらえつもの)に奴婢があてられたことが記述されている(681年)。
 律令国家においては、賤民は5つに区分された五色の賤。良賤間の通婚の禁止はもとより、同類の身分の相手としか結婚できないという「当色婚」が原則であった。国家権力によって婚姻をはじめ、罪刑、衣服などの面での差別があり、良民と一線を画す支配が行われていたことがわかる。
 近江の国司解文(746年)に当時稲1000束現代の価格でいえば約100万円程度で奴婢を売買した記録が残っている。当時の牛の価格が稲500から600束、馬が800から1000束程度であった。東大寺の大仏建立工事が進んでいた749(天平勝宝元)年、藤原仲麻呂は容姿端麗な15〜30歳の奴婢を、東大寺に貢進するように全国に命じた。翌2年、美濃国司の大伴兄麻呂らは美濃国内から奴3人、婢3人を貢進した。このうち、小勝と豊麻呂は、各稲1,000束の代価で買われている。
 奴婢には、国家が所有する公奴婢と個人が所有する私奴婢がある。、私奴婢の場合、主人が虐殺しても、役所に口頭の届け出をすればそれで済み、罪にならなかった。

【平安時代】
 戦乱、飢饉、重税に苦しんで逃亡奴隷が続出し、他方では婦女子を略取・誘拐して売り飛ばす「人さらい」や「人買」が横行した。一般庶民の多くは、払いきれない借金に喘ぎ、人身を抵当にして金銭の貸借が行われて、返済できない場合、人質は奴隷化された。子どもの売買が日常化し、特異な例としては、兄が弟を奴婢として売ってしまったり、自分で自分自身を売ってしまうようなこともあった。
 山椒大夫は、もともと説教師が、ささらをすりながら町の辻で語ってきた歌物語である「説経節」であるが、全くの荒唐無稽な話ではなく「誘拐や人身売買による奴隷化」という「事実」が存在していたことの反映である。

母と再会した厨子王 丹後の国守となり、
母と再会した厨子王丸


【鎌倉時代】
 長者とはもともと名望家や富豪の旧家の主人をさしていた。この長者の家に貴族や高位の武士が旅をするときに泊まる風習があった。このとき長者は自分の妻に身の回りの世話、さらには夜伽の相手、いわば売春接待をしていた。その後、客の接待のために専属の女性を雇うようになり、鎌倉時代中期以降は、それが営業化して娼家のようになったという。

【戦国時代】
 九州南部の戦国大名島津氏の日記・覚書・軍紀には、戦闘に伴う人の生捕りや牛馬の略奪や田畠の作荒しといった行為が多数記載されている。中には、「人を取ること四百人余り」というものもある。島津氏と隣接した肥後南部の大名である相良氏の年代記には、「いけ取り惣じて二千人に及ぶ」とあり、島津氏の事例は決して特殊なものではなく、戦国時代における大量の「人取り」が決して珍しいものではなかったことが分かる。生捕りにされ連行された人々は、下人や奉公人として働かされた。また、親族のいる者は身代金の支払いで在所に連れ戻されるということもあった。戦場にはこうした生捕りの人々を目当てとした商人とも盗賊・海賊とも言えるような人々がいて、仲介手数料を取ったり売買したりして利益を得ていた。また、ポルトガルなど外国商人により、生捕られた人々が海外へと奴隷または傭兵として売られていくことも珍しくはなかった。こうした「日本国内」の習俗は、朝鮮役の際には朝鮮にも持ち出され、多数の朝鮮住民が生捕りとなり、日本のみならず東・東南アジア各地に売られていった。
 人取りや略奪、つまり濫妨は戦場で起きる。大名権力も領内での人取りは認めておらず、濫妨の禁止により自らへの支持を取り付けていたところもある。また、敵対勢力の支配下または両勢力の境界にあるような村に対しても、味方に付けば人取りや略奪を禁ずるといった条件を提示して、自らの勢力下に置こうとすることも珍しくはなかった。だから、秀吉による統一が達成され、「国内」の戦場が消滅すると、広域的な人身売買停止令が発布されることになったが、その後も関ヶ原役や大坂陣の際には、やはり人身売買も含めて濫妨が行なわれていた。
 では、戦場での濫妨、奴隷狩りはどこまで遡るのだろうか。中世の「公」的行為であった検断・追捕の際の濫妨は凄まじいものがあり、検断者には濫妨に関して大幅な裁量が認められていた。戦場での濫妨の「正当性」はここに由来する。日本では飢饉奴隷(飢饉の時に養った者を下人とすること)と犯罪奴隷(重い罪を犯して死刑になるべき者を許して下人とすること)は正当とされていた。両者に共通するのは、そのままでは失われるべき生命を助けるということであり、これは戦争奴隷にも共通する観念である。

【江戸時代】
 江戸時代になると、幕府は人身売買を禁じたが、年貢上納のための娘の身売りは認め、性奴隷である遊女奉公が広がった。また、前借金に縛られ人身の拘束を受けて労働や家事に従事する年季奉公制度が確立した。
 街道の旅籠屋(宿屋)で、給仕の女が売春することも多かった。江戸時代に飯盛り女と言えば駅妓を指す。また茶屋も売色をすることが目的の遊び茶屋が少なからず存在した。
 また江戸時代には湯女風呂というものが流行した。これは蒸し風呂があって、女たちが垢を落とし、また当然色を売ったりもしたのである。
 公娼制とは幕府や政府といった為政者が売春を公式に管理する制度である。公娼制の存在がはっきりわかっているのは16世紀後半、豊臣秀吉が大阪・京都で認可した遊郭である。その後、徳川家康が江戸城に入城。江戸が繁栄し出すとあちらこちらに遊女の店が出来た。1612年庄司甚内が幕府に提案し、作られた遊郭が吉原である。

【近代】
 明治政府は、1870年(明治3)児童を中国人に売ることを禁止し、マリア・ルーズ号事件に関連して、明治5(1872)年に「娼妓解放令」を出した。しかし、本人の意志に基づく売春行為は認めたため、公娼制度は再び発展、「貸座敷」と名称をかえたにとどまった。また、人身売買的な芸娼妓契約や、養子に仮装した人身売買契約などの形で古い慣行が続けられていた。
 明治・大正・昭和になっても、たくさんの娘たちが金と引き換えに貸座敷に連れてこられたという。山形県のある地方では9万の人口がいたのだが、そこで2000人もの女が娼妓になって村から消えたという話もある。昭和恐慌と東北を中心とする農村の壊滅的な貧困により、身売りはピークを迎える。
 製糸・紡績業が発達するに伴い、農村の年少女子が、わずかの前借金によって奴隷的状態に置かれ、搾取されるようになった。労働時間は10数時間で、牢獄のような寄宿舎での生活を強制され、逃亡者は残虐なリンチを受けた。過酷な労働・生活条件のため、結核などで病死する女工が続出した。このような状態の女子・年少労働者を保護するため、1911年(明治44)工場法が制定されたが、その効果は容易にはあがらなかった。
 売春に関連する人身売買=奴隷的拘束問題は解決困難であり、さまざまな対策が講じられたにもかかわらず、今日まで存続している。1946年(昭和21)占領軍は、公娼制度は民主主義に反するとして「日本に於ける公娼廃止に関する覚書」を発したが、日本政府は次官会議によって、私娼取り締まりを名目として旧遊廓と公娼制度を赤線地帯に温存する方針を決定した。占領軍は、表面では公娼制度を非難しながら、裏面では占領軍将兵のための売春婦を必要としていた。しかし売春防止法(昭和31年法律118号)が、1956年5月公布され、58年4月全面施行されてのち、売春に関係ある人身売買は激減した。警察庁の統計によれば、売春関連人身売買被害者数は、1955年には13433人であったが63年には4503人に減少している。しかし、暴力団関連、外国女子関連の人身売買的売春は、現在でも後を絶っていない。
 北海道のたこ部屋、九州炭鉱地の納屋制度、前借付きの年季奉公など、伝統的な奴隷的拘束制度は、労働関係法制の整備や労働組合運動の発展によって解体された。山形県飛島の南京小僧、山口県大島(屋代島)の梶子など、もらい子制度に隠れた人身売買も、児童福祉法(昭和22年法律164号)違反として取り締まられ消滅した。

【日本における奴隷の起源と人身売買】
犯罪に対する刑罰
 隋書倭国伝に「盗むものは、贓を計りて、物を酬いしめ、財なき者は身を没して奴となす。」とある。また、『続日本紀』天平宝字四年三月十日の条に「謀反などの罪で朝廷の賤民とされた二百三十三人の奴と二百七十七人の婢を雄勝柵に移して、奴婢の身分から解放し、いずれも良民とした。」との記述がある。さらに、天平神護二年四月二十九日には「大和国の人で高志?登久美唐迴\七人は、諸陵寮に無実の罪を着せられて、公民の身分を奪われ陵戸とされたが、ここで無実であることを訴え出て認められ陵戸の籍を除かれた。」、宝亀元年八月二十九日「初め、天平十二年に左馬寮の馬部の大豆鯛麻呂は、河内国の人、川辺朝臣宅麻呂の息子、杖代や勝麻呂らを偽って告発し、飼馬(左右馬寮に属する雑戸)の名簿につけさせた。宅麻呂らは毎年訴え出て、ここに至って初めて無実の罪の汚名をそそいだ。そこで彼らの名を飼馬の名簿から除いた。」の記述がある。これは、奴隷化が犯罪に対する刑罰として行われたことを示している。

略取・誘拐
 『続日本紀』大宝三年四月二十七日「安芸の国の略めとられて奴婢とされた者、二百余人を良民として、本来の戸籍に戻し入れることを許した。」、五月十九日「播磨国揖保郡の大興寺の賤民である若女は、もと讃岐国多度郡藤原郷出身の良民の女であった。ところが、慶雲元年甲辰に、揖保郡の民の佐伯君麻呂が自分の婢と詐って、大興寺に売り与えてしまった。そのことを若女の孫の小庭らが訴えて久しくなる。ここに至ってその訴えが認められ、初めてその誤りを正すことができた。若女の子孫の奴五人と婢十人は、賤民から解放され良民となった。」の記述から、誘拐による奴隷化が行われていた事実が分かる。

戦争捕虜
 『続日本紀』神亀二年閏正月四日「陸奥国の蝦夷の捕虜百四十四人を伊予国に、五百七十八人を筑紫に、十五人を和泉監にそれぞれ配置した。」十一月二十九日「出羽国の俘囚三百五十八人を、太宰府の管轄内や讃岐国に分配した。七十八人は諸官吏や参議以上の貴族に分け与えて賤民とした。」とある。これらから、当時、戦争による捕虜の奴隷化が存在していたことも明らかであろう。

人 買
 人身を買い取り転売して利を得る行為または行為者のこと。実際には誘拐することが多く、その場合も含む。その意味で、人勾引(ヒトカドイ)(誘拐者)の「ど」の音が略されて「ひとかい」と発音するようになったとの説もある。しかし、「ひとかい」の語の初期の例では、すべて勾引(コウイン)者とは区別されており、かならずしもこの説を支持できない。
 誘拐行為は時代により表現・違法性の度合いも異なるし、また人身売買の語のさす内容も時代により異なる。古代律令制では、誘拐行為を「人ヲ略ス」、そのうえで売ることを「人ヲ略売ス」と称し、遠流(オンル)の刑としている(養老賊盗律)。それが本人の同意のうえならば「和誘」と称し、刑も一等を減じている。
 平安後期以降中世には、誘拐は一般的には「勾引」(こういん、かどい、かどわかし)と称するようになり、「子取り」の語も現れてくる。誘拐した人身を売る行為を「人売り」と称し、それを買い取り転売する業に従事する者は一般的には「人商人(ヒトアキビト)」または「売買仲人」とよばれた。中世になってこのことばが定着した背景には、人身売買事業が恒常化し組織的に行われるようになってきたことと、さらに一般的には、諸貢租の重圧や飢饉などにより貧しい庶民の子女の売られる場合が多かったことがある。鎌倉幕府や朝廷は、人身売買・勾引行為を禁制し、ときに「人勾引」を行う者や「人商」の輩に対して顔面火印の刑で臨むこともあった。
 しかし14世紀に入ると売買を目的とした勾引行為については、「盗犯に准ず」(追加法)としているように、その盗犯行為のみが問題にされるようになった。中世にあっては下人など奴隷が逃亡することも主人の側からは「人勾引」と称されているが、このことは人間が財産視され、それを不法に奪う場合のみ「人勾引」としてその違法性が問題となったと理解すべきである。「人買」の語は室町期には「人買船」などとして現れるが、一般化するのは近世初頭以降である。江戸時代では、奴隷身分と人身売買が基本的には否定され、幕府は勾引行為を死罪をもって厳禁したため、「人買」の語は一般的にはむしろ合法的な年季奉公人としての遊女に売る者などをさし、貧しい庶民の側からは「女衒(ゼゲン)」などと同一存在とみられた。
 近代以降においても、厳密な意味では、人身売買は厳禁されていたが、前借金により労働者の人身に強度の拘束を行う場合があった。もっとも多かったのが、貧しさから女子が娼妓にされる場合であり、その際仲介業者や債権者を「人買」とよぶこともあった。このような行為に対して、政府は1872年(明治5)の太政官布告で禁止の立場を示していたが、実質的にはその後も半合法的に存続し続けることになった。また日本資本主義の底辺を担った紡績・製糸業に従事する女工も貧困な農村から前借金などによって集められることが多く、その募集にあたった業者も「人買」とよばれることがあった。このような労働者の存在は、新憲法で基本的人権の尊重が掲げられ、労働基準法で労働者の権利が確立され初めて一掃された。



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