第1108回 磁石のたとえ 〜磁場に入れば 磁石に転じられる〜

 平成26年4月17日〜

 親鸞聖人が、阿弥陀如来の他力のはたらきについて、
「なお磁石のごとし」と讐えられているのは、大変示唆に富んでいます。

この讐えでは、磁石が鉄を吸い付けるように、私たちは阿弥陀如来に
吸い寄せられるというのです。
阿弥陀如来が磁石で、その磁石に引き寄せられる鉄が私たちです。

ひとくちに鉄といってもいろいろあります。
ぴかぴかに磨かれた鉄もあれば、錆びた鉄もあります。
くず鉄もあります。まっすぐな釘もあれば、折れ曲がった釘もあります。

しかし、どんなにすぐれた釘であっても、みずからの力では動くこともできません。
ましてや磁石になることはありません。
他から力を加えない限り、動くことも、中身が変化することもありません。
それは、どれほど足が達者でも、走って月に行くことはできないのと同じです。

 ところが、その動かないはずの釘が動くことがあります。
それは磁石が近づいてきて、釘がその磁場に入った時です。
その釘がどこに向って動くかというと磁石に向かってです。
このように磁場に入った釘が動くのは、’じつは釘がただの釘ではなく、
中身が磁石に変わっているからです。

磁石にくっついている釘に他の釘を近づけると、釘が釘にくっついてしまいます。
このことからも、中身が磁石になっていることがおわかりでしょう。
ということは、見た目にはいままでどおり錆びた釘、折れ曲がった釘であっても、
そのままで磁石に転ぜられているわけです。
どんな釘であっても、ひとたび磁石の磁場に入れば、中身は磁石に転ぜられます。

 阿弥陀如来の本願他力は、まさにこの磁石が釘を引き寄せて、
中身を磁石に変えるように、凡夫が凡夫のままで、必ずさとりを開く身とさせるのです。

 親鸞聖人は、阿弥陀如来の他力のはたらきについて、
いくつもの讐えを示されています。
『教行信証』「行文類」の終わりには、二十八通りの讐えを出されています。
そのなかでも「なお磁石のごとし」と磁石に譬えられているものから、
この例話が作られました。

なお、この言葉に続いて、「本願の因を吸うがゆゑに」とお示しです。

この「因」について、伝統的に二通りの解釈がなされます。

ひとつには、法蔵菩薩が本願を建てられた原因であるこの迷える凡夫のことです。
もうひとつの解釈は、本願の救いを受けいれて、往生の正因である
ご信心をいただいた人のことです。
要するに、この私たちを吸いよせるということです。


    本願寺出版社 拝読浄土真宗のみ教え布教読本 より


        


   私も一言(伝言板)