第1094回 聴聞 (ちょうもん) 〜念仏者の基本姿勢は聞法〜


古代ギリシヤの哲人ゼノンは、
人間には、二つの機能(食べる・話す)を持っている口は
一つしかついていないが、一つの機能(聞く)しか持っていない
耳は二つもついている。これは人間に大切な教訓を与えている。

つまり〈喋る倍だけ聞け〉ということだ。
と語ったと伝えられています。


口のみが発達して、聞く耳が育っていないといわれる
現代にあって、このゼノンのことばは、まことに傾聴に値するものです。

 わたしたちの教えは「聴聞にきはまる」(『御一代記聞書』)

いわれていますし、即如門主も、

 僧俗を問わず念仏者に一貫した基本姿勢は聞法である (『伝道』第十号)

と明示されました。「聞」 を通さずして信が成り立たない
ことを思えば、わたしたちは、つねに〈聞こえる耳〉を
持つように心がけたいものです。

 親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』のなかで
『大無量寿経』の異訳である『平等覚経』のことばを引用して
「楽(この)んで世尊の教を聴聞せん」(「行巻」)

と示されていますが、その「聴聞」の語句に

「ユルサレテキク シッジテキク」の左訓を付しておられます。

 本来、「聴」という文字は(くわしくききとる)ということを意味しています。
〈耳をそばだてて聴く〉ということです。
この文字に(ゆるす〉という意味があるのは、縁あって
聴くことのできる身になったということでありましょう。

しかし「聴けども聞こえず」といわれるように、聴きに出かけて
耳を澄ませてみても、相手の意を受けとることができないなら、
聞こえていないということです。

 したがって「聞」という文字は、告げ知らされたものが、
耳にたしかに感受れた状態をさすのであって、音声が

心にゆきとどいたことです。

親鸞聖人が『シンジテキク』と左訓をされたのは、
如来の仰せをわがことと間違いなく聞きひらいたことをこそ
「聞」と称されたのです。

 衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし 「信巻」とか

 きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。
 またきくといふは、信心をあらはす御のりなり 『一念多念証文』

と述べられたことによっても、浄土真宗の教えは、
すでに如来に喚ばれているわたしであったと聞こえる身に
なるということが大事なのです。

蓮如上人が「聴聞を心に入れ」(『御一代記聞書』)と
誡められたのも、まさにわがためと聞く耳を持てということでありました。

 浅原才市翁の「法悦ノート」(鹿児島県加世田市・顕證寺蔵)を見ると、

たすかるぶつがなむぶつで
たすけなさるがあみだぶつ

さいちがほうにはなんにも用なし

と詠ったのがあります。

これこそ如来に帰するこころまでも、すでに回施されて
あると受けとめたもので、まさに〈聞こえたすがた〉といえます。
聴によって聞に入る道を得てこそ「聴聞」の意義があるのです。

  藤澤量正師 仏教語のこころ 「ことば」 より

 妙念寺電話サービス 次回は 1月 16日に新しい内容に変わります。


         


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