第1085回 自力心の否定  ~一心に弥陀をたのむ~

 平成25年 11月 7日~

 浄土真宗でいう他力は 他力に廻向がついている他力であります。

しかもこの廻向は、一般仏教に用いられているような

私の側から 仏の世界に向かっていくものではありません。

この私のたすかるものがらを仏の側から与えてくださることを
廻向といわれるのであります。
このような廻向の解釈は 親鸞聖人の独特なものといわれます。

それ故、蓮如上人の解釈でも御文章では 
仏から私にくださるというのが多く用いられています。


他力のものがらである南無阿弥陀仏(本願力)は いつでもどこでも、
だれにでも既に与えられているのであります。
この私が求めるに先行して 既にとどけられているのであります。

にもかかわらず この私は救われていないのは何故でしょうか。
それは仏さまの側の失でなく、
この私の側に問題が残されているのであります。


私の側から はねつけているからであります。
はねつけることは 接していなければ成立しません。
このはねつけることが 自力心ということであります。

それ故、信心のことを無疑といわれるのであります。
疑とは自力心のことをいい、自らのはからいをいうのであります。
このはからい(自力心)の否定が信心ということであります。

しかるに自力心のはからいは いかに自らの努力によってもとることは
出来得ないのであります。
それは恰も自分の眼で自分の眼を見るようなものであります。

この自力心のはからいは 蓮如上人の御文章にあるように、
「自力の心をすてて、一心に弥陀をたのむ」とあり、
「一心に弥陀をたのむ」ことがそのまま自力の心はすたることであります。

自力の心のすたることは他力の法のはたらきによるからであります。
「一心に弥陀をたのむ」ことがそのまま私の側の「自力のこころ」の
すたることであります。

「一心に弥陀をたのむ」ということはこの私のすくわれる、
すくわれないということはすべて弥陀の仕事であるということであります。
それ故、この私のはからいは否定されざるを得ないのであります。

ここにはこの私のはからい、この私の造作は全く介入する余地はありません。
この私の自力心の否定されることはそのまま弥陀の法がこの私を場にして
はたらいているからであります。

それ故、残るものは私ならぬ弥陀のはたらきしかありません。
それ故、蓮如上人は御文章五の二十二通には
「されば南無阿弥陀仏と申す体はわれらの他力の信心のえたるすがたなり・・・」
とあります。

他力の信心とはこの私を場として南無阿弥陀仏がはたらいているので、
この私のはたらきの介入する余地は全くあり得ないのであります。

それ故、他力の信心のものがらをいうと、南無阿弥陀仏のほかには
ありません。それ故、親鸞聖人も他力の信心は 信相の上の「無疑」
という解釈をされているのであります。

それ故、他力とは「義なきを義とする」といわれる解釈をされるのであります。
この私の側からのはからいは全く介入する余地の在しないことを意味するのであります。
そこにはたらいているものは名号法の活動のほかにはないのであります。

ここではこの私は無限否定の場におかれるのであります。
そこに他力の生活には御恩ということが成立するのであります。
御恩ということは自己の無限否定を場に生かされることであります。
自力の世界には御恩ということは成立しないことは教行信証の
二十願の結びの言葉に述べられているごとくであります。

            稲城選恵師 他力ということ p23

  妙念寺電話サービス 次回は 7月14日に新しい内容に変わります。

         


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