第1079回 念仏成仏これ真宗 ~目覚めたものは 仏教徒~

 平成25年 9月26日~

 念仏成仏 これ真宗とは  親鸞聖人が 大切にされたお言葉です。

仏教は 仏になる教え ところが 仏に成るとか
浄土に往生するということが 今 なかなか分からなくなっているのではないか。
そして、仏さまに成りたいと思っている人が 意外と少ないのではないか。

仏に成るとは どういうことか 
仏教は お釈迦さまに よって始まっている お釈迦さまは
 何故出家されたのか。

生老病死の苦悩から解放されて 生きるものとなりたい。これが出発点。
生老病死を苦悩とする これは人間に生まれた故に 苦しみと感じるのである。
他の動物は 生老病死を 苦悩とは感じません。


これは人間だけが背負っている苦悩。
生老病死を 苦しみ悩まなければ 生きていけない存在、その苦しみから解放されたい、
解放されて生きるものと成りたい。それがお釈迦さまの基本的な求道であった


そして、お釈迦様は 私が生きているのではない 生かされている私であった
という 命の真実に出会われた。

私たちは、私が生きていると思っている 私が歳を重ねる 私が病気になる
私が 死ぬのだと思っている

私、私、私の束縛のなかで 悩み苦しんでいる。

考えてみると 生まれたから歳を取るのが当たり前 時には病気になるのが 
当たり前。そして命を終えていくのも 当たり前 それなのに 何故苦しまなければならないのか。

猫や犬は 命を終えていくことを 素直に受け入れ 悩んだり苦しんだりしていない。
体が衰え、命を終えていくことを素直に従い受け入れ 苦しむことなく生きている。
ゆうゆうと老いの命を生きている。

それなのに 人間は何故悩むのか。そこに 私がなんとか頑張って

なんとか 歳をとらないように なんとか病気にならないように 
なんとか死なないようにと、人間だけが 頑張っている 


お釈迦さまは その頑張っている私とは 何なのか明らかにされた
頑張っている私とは 何ものか。お釈迦さまは求め求めて 目覚められました。

生きているのではなく、ご縁のままに生かされている
ご縁のまま 生きるものでしかなかった
それをはっきりとされたのが お釈迦様のおさとりの内容でありました。

 お釈迦様のおさとりの内容は 難しいものではなく、簡単なもの
私が生きているのではない。生かされている私であった。
このおさとりは ご縁があれば 誰でもいただける。目覚めたものが仏教徒である。

 しかし、私たちは この仏教のさとりに出会いながら それを自分の身に
引き比べると、そうなっていない自分が見えてくる、分かった通りに生きられたら
自分がいる。親鸞聖人は  それを煩悩成就の凡夫であると受け取られました。

真実に出会いながら、うなずきながら そうなっていない自分がいる。
仏法に背いて 煩悩に沿って生きているのが現実である。
南無阿弥陀仏は、そうではないぞ そうではないぞと 絶えず問いかけて

いただける呼び声。

南無阿弥陀仏は 必ず救うぞ、仏にするぞとの阿弥陀さまの呼び声、
誓願不思議に助けられ 力強く生きていく力を与えられ やがてお浄土で仏と成れるのだよと、
親鸞聖人は 教え 勧めいただいているのです。

    真宗連合750回忌講演より

         


           私も一言(伝言板)