第1074回 ただ信心の救い ~自力ではなく 他力の信心~

 平成25年 8月22日~

 還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入

 生死輪転の家にかえることは 決するに疑情をもって所止とす
 すみやかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは かならず信心をもって能入とすといえり


 法然聖人は 『選択本願念仏集』 を著して、ただ念仏の一つで善人も悪人も
ひとしく救われることをお述べになったのでありますが、
「それならば、わたくしがお念仏を称えることが 仏になる因でしょう」 というような考え

違いをせぬようにと、わざわざ三心章をもうけられて、くわしくお示しになりました。

その三心章は 「念仏の行者は必ず三心(信心)を そなえるべきである」 と

いうお言葉から 始まるのでありますが、そのもっとも肝要なところを親鸞聖人は、
正信偈の中にひかれるのであります。

 法然聖人のお示しによりますと、わたくしたち凡夫は、ちょうど尺とり虫が
丸い輪のまわりを ぐるぐるとまわるように、生まれたり死んだりして 生老病死の
苦しみがつきることなく、まよいの世界を往ったり戻ったり、去ったり来たりして
さ迷っているのは、如来の本願を素直に信ぜず、はからう心で疑うからであると
判定されたのでありました。

 これに対して煩悩の火が消えて 苦しみや悩みを離れた静かなさとりの世界、
永遠に変わらない さとりのみやこに すみやかに入ることは、この本願を
疑う情(こころ)を ひるがえして如来より与えられる ご信心を
いただくことによって必ず決定すると教えられました。

 つまりわれわれが、このたびさとりの世界に生まれるか、それとも
ふたたび迷いの世界に還るかは、わたくしの煩悩悪業のあるやなしやに
よるのではなくて、ただ如来より回向される名号を頂戴するか、それとも
疑って頂戴せないかによるのであるとされるのであります。

なぜなら信心(名号)のお徳は、わたくしの一切の罪業を消しほろぼして
しまうのでありますから、浄土へ生まれるさわりは煩悩悪業というより、むしろ
疑って名号をいただかないことにあるといえるからであります。

 法然聖人は、そのご生涯いかなる弾圧にも屈せず一心一向にお念仏を
称えられました。
それは日に 数万べんと伝えられております。

わたくしの一日に称えるお念仏の数とくらべたとき ただそのおこたりの身を恥じる
ばかりであります。

しかし、聖人はみずから称えて人々に このお念仏で仏になれるとお勧めに
なっても、決して自力の念仏ではなく、他力の信心を心のうちに頂いて
その喜びのあまり称えるお念仏であることを教えられていることを
知らされるのであります。

そしてこの聖人の 「ただ念仏」(念仏往生)と 「ただ信心」(信心正因)の教えが
そのまま親鸞聖人にうけつがれて 「本願を信じ 念仏をもうさば 仏に成る」 の
お勧めになることを この正信偈の上からも うかがうことができるのであります。

           本願寺出版社 正信偈入門 三木照國師著 より

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は 8月29日に 新しい内容に変わります。

         


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