事務次官と大臣 どっちが偉い

 有明海の海苔の不作を承けて、前内閣の農林大臣が諫早湾干拓の視察にやってきた。そこでつい本心が出て「水門を開かせる」と言ってしまった。すぐさま事務次官が「水門は開けません。大臣は間違った発言をしました。」との訂正発表を行った。筆者はそれを聞いて、今更びっくりはしないものの「大臣は単なるお飾りで、本当に偉いのは事務次官である。」という現実をあらためて思い知らされた。
 さて、小泉さんが総理になって田中真紀子さんが外務大臣になった。さすがは真紀子さん、角さんの娘だけあって河野さんなどとは役者も違えば迫力も違う。外務官僚の「圧力」にも「入院続出」といういい手のサボタージュにも屈せず、断固たる態度でダウン寸前の激務をこなしている。しかし「敵」の攻撃・嫌がらせは止むことを知らず、防衛庁への連絡を怠ったり、この日のために手なずけた、既得権ネットワークに連なる従来型政治家やら子飼いのマスコミやらを使って真紀子さん包囲網を形成して、引きずり降ろしを画策しているようである。しかし、真紀子さんは何しろ角さんの隣にいて政界・官界の裏も表も知り尽くしているだろうし、弱みも握っているらしくあくまで強気である。
 ところで事務次官は正真正銘の「官」だが、大臣は、民が選んだ議員が議員のなかから選んだ総理大臣が、これまた大半が議員のなかから任命するものである。選ぶ側も選ばれる側も何時「ただの人」になるかも知れない立場であり、おまけに大臣に至ってはこれまた実に短期間で首をすげ替えられることが多い不安定な職である。要するに大臣は「官」ではなく、しがない「民」の立場にしかすぎないのである。そこで、日本は国初から「官高民低」のお国柄であるから事務次官が偉いに決まっているということになる。しかし、今は民主主義の世の中であるから、選挙で選ばれたものが試験で選ばれた官僚を指揮コントロールするのが建前ではある。小泉さんや真紀子さんは民主主義の原則を取り戻すべく奮闘努力を重ねているわけである。
 ここで問題になることがある。先ず、現在のような規制の網が幾重にもかかり、しかも国民の行政に対する需要が多岐にわたり要求内容のレベルが高い、すなわちお役人言葉で言うところの「国民ニーズの複雑化、高度化」が顕著な社会ではどうしても「大きな政府」にならざるを得ない。そして官僚の権力基盤はまさにここに存在する。規制に適合するか否かの審査、国民の需要や要求に応える優先順位の決定、予算の積み上げ等のために官僚たちは日夜膨大な事務をこなしている。この作業の過程があってこその官僚の権力である。
 ところが大臣をはじめとする政治家さん達はこの作業を自らやることはない、勢い官僚におんぶすることになる。さらに政策立案のためのシンクタンクも独自のものを持たないが故に、結局官僚が頼りとなる。さらにここが一番肝心だが、官僚の方が政治家よりも要するに頭がよい。情報処理能力も官僚の頭の方が優れているし、蓄積したコンテンツも政治家の比ではない。そうなると、従来の政治家さんは官僚様に「お願い」するのが精一杯ということになり、政治家の仕事といえば自分の支持者の利益を代表して役所に圧力をかけることであるということになる。官僚様たちも心得たもので、政治家さん達の顔を立てて僅かばかりの予算を振り向けてやることによって自分の立場を強化しようとする。要するに官僚様たちにとって政治家等というのは物貰いの一種なのである。しかも自分の懐が痛むわけでもない。一方、政治家は利権誘導で当選回数を重ねられるという、持ちつ持たれつのいい関係を保ってきたわけである。
 現在の官僚制度は明治以来ほとんど変化していない。敗戦によって軍は解体されたが官僚制度は全くの無傷で戦前のヒエラルヒーを堅持している、そしてその権力は、軍部がなくなった分さらに強化されているのである。小泉さん達は果たしてこの巨大組織を向こうに回して、しがない「民」の立場で一体どこまでやることができるのか、筆者は注目している。



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