価値相対主義の功罪

 
違った行動や、不当な主張、常識はずれの裁判や卑怯卑劣な言い逃れなどを非難して「そのようなことは正義に反する」等と言っていると、したり顔をして「何が正義かはわからない」とか「正義の基準は定められない」とか「人によって正義の内容は異なる」とか、終いには「正義など存在しない」とかいうやつがおる。このような考え方を「価値相対主義」という。我が憲法も基本的に価値相対主義に立脚しているという。価値相対主義とは「何が正しいかという価値判断は絶対的には定められない」と言う考え方である。価値相対主義にも価値判断は客観的には証明されないと言う理論上の立場と、様々な価値判断を相対的に、すなわち寛容に扱おうという実践上の立場とが区別されるという。
 
かに人類の歴史を振り返ってみると時代により国により地域によって「正義」の内容は異なっている。戦争捕虜を奴隷にして売り飛ばし酷使して殺すのも正義なら、「前世の因縁」で低位カーストに生まれた人を虐待するのも正義、人間とライオンを戦わせて面白がるのも正義なら、阿片を買わない「不正義」を懲らすのも正義となる。いやはや色々な正義があって何がなんだかわからなくなってしまう。アジアの土地を支配するのが神から与えられた白色人種の使命であると言っていたヨーロッパ列強の正義やら、「正義」を振りかざして何千万人の罪なき人々を殺した○○主義の連中や、もと○○党書記長ミロシェビッチによる「正義の」民族浄化など身の毛のよだつ「正義」を見せられると「正義」が嫌になってしまう。
 
こで「価値相対主義」が登場する。しかし、だからといってナチのユダヤ人大虐殺や○○主義者ポルポトによる自国民大虐殺などが「もしかして正義かもしれない」などと言ったらこの世は闇になってしまう。身近な例でも、いじめや差別も必ずしも正義に反するとは限らないとか、泥棒や人殺しも不正義ではない等と言ったらこの世間でまともに生活できなくなってしまう。
 
き過ぎた価値相対主義の行き着く先は、この世の地獄である。我々は常にその合理的知性を用いて、「普遍的な正義」を追求しなければならないのであって、過去において現在からみれば正義とはかけ離れた「正義」があったからと言って「正義など存在しない」と短絡する根拠などありはしないのである。



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