俘囚とは何か

1.蝦夷は縄文人の後裔
 
治以来蝦夷の人種的系譜について論争が繰り返されてきた。それは主に「蝦夷はアイヌ系か否か」との問いに関するものであった。しかし筆者は、以前からその問いそのものが間違っていると考えている。正しい問題提起は「アイヌは縄文人系か否か」でなければならない。そして現在の遺伝子研究はアイヌが縄文人につながる人々であることを明らかにしたと言ってよい。そしてさらに奈良平安の時代にエミシと呼ばれた人々もまた縄文人の後裔である事にまともな反論はない。すなわち平安時代のあとエゾと呼ばれた人々もエミシと呼ばれた人々も共に縄文人の後裔である。

2.征夷戦争
 
和朝廷によって繰り返された蝦夷を征服する試み、特に8世紀後半に桓武天皇によって行われた試みは概して失敗であった。大陸から輸入した弩を用いてさえ官軍は蝦夷のゲリラ戦術に手を焼き、蝦夷(エミシ)を最終的に北海道に追い込むことに成功したのは9世紀の中頃で、騎射を得意としたサムライに頼ることでようやく達成し得たのである。
 さて、その征夷戦の記述のなかによく俘囚なる言葉が登場する。俘囚とは一体何者なのか。

3.俘囚とは何者か
 
囚の定義は必ずしも一定していない。水戸光圀編纂になる『大日本史』は、俘囚は蝦夷人であって、大和朝廷側に服従し皇化に従い帰服したものであるとしている。菅原道真が編簒した『類聚国史』の中に蝦夷の部がある。これには蝦夷とは別に俘因の部がある、さらに、夷俘も俘因も一緒のものとしている。これに対して、関白一条兼良(1402〜1481年)の手になる『江家次第抄』(正月宴会条)は、「俘囚はもと是れ王民、而して夷の為に略せされ遂に賤隷となる、故に俘囚と云う。あるいは夷俘とも云う。その属陸奥・出羽に在り、後分れて諸国に居る」つまり、俘囚をもともと大和朝廷の支配下にあった人々で、蝦夷人に征服された人々であるとしている。何故に「俘因もと是れ王民」ということを一条兼良が書いたかというと『続日本紀』の記述が基である。
 俘囚はもともと王民、すなわち大和朝廷の支配下にあった人々であったとの説の根拠は、『続日本紀』が伝える次のようなエピソードである。

神護景雲三(769)年十一月二十五日、己丑。
 陸奥国牡鹿郡の俘囚外少初位上勲七等大伴部押入言うす。伝え聞く。押入等は、是紀伊国名草郡片岡の里の人なり。昔、先祖大伴部の直、夷を征するの時、小田郡嶋田村に到りて居す。
 其の後、子孫、夷のために虜にせらる。代を歴て、俘となる。幸に聖朝に頼り運を撫し、神武、辺を威し、彼の虜庭を抜きて、久しく化民と為る。望み請うらくは、俘囚の名を除きて、調庸の民と為らん事を。これを許す。

神護景雲三(769)年十一月二十五日
 陸奥国牡鹿郡の俘囚、少初位上・勲七等の大伴部押人が次のように言上した。
 伝え聞くところによりますと、押人らの先祖はもと紀伊国名草郡片岡の里の人ということです。昔、先祖の大伴部直が蝦夷征伐の時、陸奥国小田郡嶋田村に至り、住みつきました。その後、子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚とされました。幸い尊い朝廷が天下を治められるめぐり合わせとなり、すぐれた武威が辺境を制圧しているのを頼みとして、あの蝦夷の地を抜け出てから、すでに久しく天皇の徳化のもとにある民となっています。そこで俘囚の名を除き、調庸を納める公民になることを申請します、と。これを許可した。
 朝廷ではそれだけ調庸の民が殖えるのだから、さっそくこれを許した。これが例になって、だんだんこれにならうものが出て来た。

称徳天皇代の宝亀元(770)年四月一日
「陸奥国黒川。賀美等十一郡俘囚三千九百二十人言て日く。おのれらが父祖は、本、是王民なり。而も、夷に略せられ、遂に賤隷となる。今既に敵を殺して帰降せしめて、子孫蕃息す。伏して願わくは、俘囚の名を除いて、調庸の貢を輸さんと。これを許す。」

宝亀元年四月一日
 陸奥国の黒川・賀美など十一郡の俘囚三千九百二十人が、次のように言上した。
「私どもの父祖はもと天皇の民でありましたが」、蝦夷にかどわかされて、卑しい蝦夷と同じ身分になりました。今はすでに敵(蝦夷)を殺して、帰順し、子孫も増えております。どうか俘囚の名を除いて、調庸を納めさせていただくようお願いします」と。
この申請を許可した。

 「俘因はもと王民なり」との説はこれらから出ている。一条兼良はこの宝亀の例を取って書いているのである。田中勝也
エミシ研究―蝦夷史伝とアイヌ伝説(新泉社1992)のなかで、同様な根拠で、俘囚とはおそらく朝廷軍の占領地を占守維持するための軍隊として残留させられ、やがて、朝廷側から棄民状態におかれた人びとがやがて、蝦夷族に支配されてしまい、一定の時代を経て、蝦夷との社会的・血族的・文化的同化、結合、混合がなされて成立した勢力であるといっている。これに対して、「夷俘」は明らかに、朝廷側に虜にされた蝦夷を指したものであるといっている。
 物事には原則と例外とがある。もし俘囚の多くがもと倭人で蝦夷の捕虜となったものであるならば、大伴部押人は、なぜ自分たちだけを特別扱いしてくれるように言ったのであろうか、また朝廷も他の俘囚と何ら変わらない由来を述べたに過ぎないものを特別扱いしたのであろうか。俘囚そのものがただちに倭人であるならば、ことさらに自己が日本人であることを申し立てて、俘囚の名を除いてもらいたいと願う必要はないのではないか。何より続日本紀は、なぜそんなに一般的な出来事をわざわざ記載したのであろうか。大伴部押人の例が稀なことであったからと考えなければこれらの事実を説明できないと言うのが普通の考え方であろう。
 宝亀元(770)年四月一日の条の意味するところは、現にこれまで俘囚に属していた人が、私どもは本来俘囚であるべからざる者である。それが過って俘囚の仲間に入れられているのは不当であるから、調庸の民になりたいという意味である。そうならば、これは俘囚は本来王民と違うものだという前提がなければならない。
 以上のことから、「俘囚とは蝦夷の捕虜になった倭人である」との説は成り立たないと考える。

4.俘囚の倭人化
 
和朝延側の文化を受け入れ、その叙位・姓氏を受けるようになると、俘囚勢力は大和朝廷側にとって蝦夷を掣肘する有効な勢力・手段となるのである。さて、当時の俘囚の文化状態であるが、彼らは即吟に歌を詠ずるまでの文学レベルを有していた。

「年を経し糸のみだれの苦しさに、衣のたてはほころびにけり」

 これは貞任が義家から弓をつがえて「衣のたてはほころびにけり」との呼びかけに応じて「年を経し糸のみだれの苦しさに」と即吟して死を免れたと言う伝説の和歌である。また宗任は捕虜となって京都へ行った時に、大宮人からか「夷荻はとうてい梅などは知るまい」とばかりに、梅の一枝を示された時に、

「我国の梅の花とは思へども、大宮人はなにと言ふらん」

と応じたので、さすがの大宮人も返歌が出来ず、大いに閉口したと伝えられている。むろん作りごとではあろうが、ともかく、彼らの文化は相当に倭人化していたと当時信じられていたことを示している。「陸奥話記」を見ると、安倍貞任が厨川に敵を防いだ時の戦法は、後年楠木正成が千早城において敵を防いだ戦法とほとんどおなじである。このほか、「陸奥話記」を読んでみると、その当時の奥州の俘囚は直接京都の文化を輸入している。すくなくとも、俘囚長安倍氏は京文化を十分に取り入れていたのである。

5.俘囚の移配
 
『続日本紀』は、あちこちで、この俘囚を朝廷が、全国各地に分置・移民させたことを伝えている。
〈聖武紀〉神亀二(725)年間正月の条に、「陸奥国俘囚百四十四人を伊予国に配し、五百七十八人を筑紫に配し、十五人を和泉の監に配す」とある。
 強制移住全体の規模ははっきりしないが、記録に残るもので二千名、延喜式の推計からは四千六百名、 実際には一万名を上回る人々が三十五ケ国に分散移住させられたと見られている。俘囚は、入植させられた国々で局部的な軍事・警察集団として利用されるなど、大和王権に奉仕を強要された。
 そのことは『延喜式』や主税帳)に、各国の正税(国税)の内訳が記されており、その中に「修理池溝料」(潅漑用水などの修理にあてる稲の糧)などと並んで、「俘囚料」の項が現われていることから知られる。

6.民族の入れ替え
 
囚を移配する一方で、倭人を続々と蝦夷の地に移し人間の入れ替えをやった。続日本紀に以下のような記載がある。欧米列強による新大陸の開拓によく似ている。

和銅七年十月二日
 勅が出され、尾張・上野・信濃・越後などの国の民、二百戸を割いて、出羽の柵戸に移住させた。
霊亀二年九月二十三日
 従三位中納言の巨勢朝臣麻呂が次のように言上した。
出羽国を建ててすでに数年を経たにもかかわらず、官人や人民が少なく狄徒もまだ馴れていない状態であります。しかしその土地はよく肥えており、田野は広大で余地があります。どうか近くの民を出羽国に移し、狂暴な狄を教えさとし、あわせて土地の利益を向上させたいと思います。
これを許された。そこで陸奥国置賜・最上の二郡および信濃・上野・越前・越後の四国の人民をそれぞれ百戸宛出羽国に付属させた。
養老三年七月九日
 東海・東山・北陸の三道の人民二百戸を出羽柵に入植させた。
養老六年八月二十九日
 諸国の国司に命じて柵戸とすべきもの千人を選ばせ、陸奥の鎮所に配置させた。
天平宝字元年四月四日
 不孝・不恭・不友・不順の者があれば、それらを陸奥国の桃生城・出羽国の小勝に配属し、風俗を矯正し、かねて辺境を防衛させるべきである。
天平宝字三年九月二十七日
 坂東の八国と越前・能登・越後の四国(越中脱落)の浮浪人二千人を雄勝の柵戸とした。
天平宝字六年十二月十三日
 乞索児(ほかいびと)百人を陸奥の国に配属し、すぐに土地を与えて定着させた。
神護景雲元年十一月二十日
 贋金造りの王清麻呂ら四十人に、鋳銭部の姓を賜って、出羽国に配流した。
神護景雲三年六月十一日
 浮浪の人民二千五百人あまりを、陸奥国の伊治村に置いた。


「鳥が鳴く東を指してふさへしに 行かんと思へど由も実(さね)もなし」万葉集
(鳥が鳴く・枕詞・東の地方に幸いを求めに行こうと思うが、行くべき手段もなければ旅費もない。)
 これと同じように、自らの意思で蝦夷の地に移り、拓殖に従事した人も多かったと想像される。このようにして大和の文化がだんだん辺境に及んでいった。中には俘囚の仲間に入った者も多かったと思われる。安倍氏は奥六郡を領し、平氏や藤原氏といった姓をもつものまで、その下に属していた。

7.遠交近攻
 
廷は、俘囚、夷俘など王化に服した者は、これを蝦夷地から離して内地に移す。蝦夷地に置くと、彼らが団結して勢力が減じないからである。常に「以夷制夷」の方法を採っている。蝦夷のある集団を懐柔しては、これをして他の蝦夷の集団を制せしめる。歴代の征夷「詔勅」を見ると、「夷を以て夷を制するは是古への上計」などと見えている。蝦夷は強い、一もって千に当るとまで言われている。そこで蝦夷を征伐する場合には、日本人と蝦夷人との戦争ではなく、うまく蝦夷人を用いて、蝦夷同士の戦争をやらせる。これが朝廷の一貫したやり方であった。

8.突如消えた俘囚
 
因という名は奈良から平安朝にかけて多く見えているが、不思議なことに鎌倉時代に至って、突然消えてしまうのである。また、『吾妻鏡』に源頼朝が藤原泰衡を征した時のことが詳しく書かれているにもかかわらず、敵が俘囚であるとか、夷であるとか言っていない。頼朝は後に征夷大将軍になっているのに、この時の軍を征夷の軍だとは言っていないのである。『玉葉』に秀衡を夷狄と言っているのと、『台記』に基衡のことを匈奴と言っているのが一番後で、これから後では、俘囚とか夷狄とか言った例はないのである。

『台記』藤原頼長の日記。
『玉葉』藤原兼実の日記。



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