爆弾三勇士(靖国神社レリーフ) 爆弾三勇士の真実

1.与謝野鉄幹作詞「爆弾三勇士」
 明治の熱血詩人にして与謝野晶子の夫、
与謝野鉄幹が新聞社の公募に本名の与謝野寛で応募し、1位入選した作品に「爆弾三勇士」という歌がある。「爆弾三勇士」(あるいは「肉弾三勇士」)とは、昭和に入って初めての軍神である。

   「廟行鎮(びょうこうちん)の 敵の陣
    我の友隊 すでに攻む
    折から凍る 二月(きさらぎ)の
    二十二日の午前五時」

 昭和7年1月末、
「上海事変」が勃発した。蒋介石の最強部隊である19路軍は天険を利用した堅固な陣地を構築し、わが軍は攻めあぐねていた。2月22日の払暁、36名の決死隊が鉄条網に爆弾を投入して突撃路を開くことを企図した。このとき、久留米第24旅団の工兵江下武二、北川丞、作江伊之助の一等兵は、予め点火した破壊筒(竹製の即席爆薬筒)を抱いて鉄条網に突入爆破し自らも壮烈なる爆死をとげた。彼らは「肉弾三勇士」「爆弾三勇士」と賞賛され世間はわき返った。与謝野鉄幹の手になる「爆弾三勇士」をはじめとして、三人を題材とした歌も多く作られた。映画、歌舞伎、演劇が三勇士ものを上演し、琵琶、浪曲、筝曲、絵画、彫刻、あらゆる分野で競って作品化された。果ては「三勇士饅頭」「三勇士煎餅」までが売り出され、大阪の高島屋の食堂では「肉弾三勇士料理」が売り出された。

2.上海事変とは
 上海事変はその前年に起こった満州事変から列国の注意をそらそうとして起こったものである。昭和7年3月3日に国際連盟が総会を開く予定であり、そこでは満州事変が中心の議題となると予想されていた。日本側は3月1日に満州国の建国を宣言して、満州問題に肩すかしを食わせる手筈であった。
 昭和7年1月18日、日蓮宗の日本人僧侶5名が中国人によって襲撃され死傷する事件が起こった。日本人居留民の対中国意識は急速に悪化、一方中国の民衆は排日スローガンを唱え、過激なビラをまくなど対立が激化していった。ついに日本人居留民は軍の出動を要請した。発端となった僧侶襲撃事件は、関東軍の板垣征四郎高級参謀らから依頼された、上海駐在の陸軍武官補佐官・田中隆吉少佐による謀略だという話もある。
 ともあれ、日本の世論は激昂し、海軍はただちに在留邦人保護のため上海方面に巡洋艦、駆逐艦、特務艦など軍艦15隻と陸戦隊を派遣した。1月28日には上海租界に戒厳令が出され、同日午後11時40分に日本海軍陸戦隊が出撃、翌日には事実上交戦状態に入った。
 上海を守備する蒋介石の精鋭部隊、第19路軍は密かに戦闘準備をしていた。しかも、第19路軍は、毛沢東の「紅軍」との戦いを通じて、地形を利用する戦術を学び、それに対する対抗手段としての陣地戦も会得していた。日本の陸戦隊は実践の経験もなく、地理にも不案内であった。なにより、敵の兵力は約3万1千、対する日本の陸戦隊は2千人にも満たなかった。日本軍は苦戦を強いられた。
 2月2日には
久留米の第24旅団と、金沢の第9師団の派遣が決定された。第24旅団は2月7日上海に到着、第9師団各部隊も16日には上陸を完了した。
 日本側は、1個師団以上の陸軍が進出すれば、たちどころに敵は退散する、との思い込みがあった。日本軍は敵をよく知らず、環境に対する知識は皆無に等しかった。これに対し19路軍は、「匹夫不可奪志的民族精神」と「寧為玉砕不作瓦全的軍人決心」に燃えて士気旺盛、援軍も加わり約4万人の兵力となっていた。敵の装備は日本軍に比較すると劣っていた。しかし、戦場は湿地帯で、徒歩で渡ることが不可能な無数の巨大クリークが一帯をおおっていた。近代装備は全く機能せず日本軍は苦戦を強いられた。日本軍使用の地図と実際の地理との相違も著しかった。第7連隊第2大隊は、地図の相違に気づかず敵中に孤立し、ほぼ全滅の悲運に遭遇した。
 21日午後1時30分、第9師団長植田中将は、江湾鎮攻撃を命令する。2日にわたる江湾鎮攻撃は、
偵察機の誤認、指揮官の誤判断などが加わり、戦闘は「歩兵の銃剣」のみによる「日露戦争」型の攻撃に等しかった空爆と砲撃との連携が不十分で、日本側は鉄条網に阻止され敵の機関銃さえ制圧できなかった。第24旅団は、前日まで攻めあぐねた廟行鎮を第24連隊第1大隊(碇善夫少佐)に攻撃させる計画をたてた。2月22日の払暁、碇少佐率いる第1大隊に攻撃命令が下った。これを援護するため、工兵第18大隊第2中隊も出動し、36名の決死隊が鉄条網に爆弾を投入して突撃路を開こうとした。三勇士の軍国美談はこの時生まれたのである。

3.「爆弾三勇士」捏造説
 「爆弾三勇士」の話は事故を美談に仕立て上げたもだという説がある。陸軍が単なる事故を「覚悟の自爆」と話をこしらえて発表し、マスコミがこぞってセンセーショナルな報道をしたのは、「軍国主義」をあおる為であったというのである。

(1)
三勇士と同じ隊にいた兵卒が書いた文書『「三勇士」のほんとのこと』に、
「導火線が上官により30センチばかり短く切られた。3人は途中でたおれ、間に合わないので引き返そうとしたが、上官がどなりつけて突入を命じた」と書かれているそうである。また導火線の長さではなく、種類を間違えたため、予定よりも早く燃えて爆発してしまったという説もある。同時に出撃した他の3隊は爆破に成功して無事生還しているのが証拠だそうである。

(2)戦後になって
元第24旅団長田中隆吉少将は、
「命令した上官がですな、爆弾の導火線の火縄を1メートルにしておけば、あの鉄条網を爆破して安全に帰ることができたんです。それが誤って50センチ、すなわち半分にしてしまったんです。それで----3人は無残な戦死をとげちゃったんです。----彼らは完全に爆破して帰れると思っていたんです。」
と、真相は事故であったと話したそうである。

(3)爆弾三勇士は国定教科書に登場した。それによると最後に傷ついた三勇士の一人が「天皇陛下万歳」といって死亡することになっている。
上野英信『天皇陛下万歳―爆弾三勇士序説』(1971年)は、「爆発と同時に即死したはずの兵士が「天皇陛下万歳」とどうやって言うのか。その言葉を聞いたものはいったい誰なのか。」という点を追及しているという。よく考えてみれば、「天皇陛下万歳」といって死ぬものなどそんなにはいないであろう。実際は「お母さん」という言葉が多かったそうである。

4.結構うさんくさい「捏造説」
(1)三勇士爆死の詳細
 鉄条網の除去は工兵の役目である。2月22日午前1時、工兵達は他の兵とともに敵前100メートル地点にひそんでいた。午前3時40分、攻撃がはじまった。第1、第2中隊は突撃路を開いて突撃、敵陣地を占領した。第3中隊には、工兵が5本の破壊筒を持って同行していた。
破壊筒は、長さ約4メートルの筒に爆薬20キロをつめ、全体を竹でつつんだうえにさらに藁で外装して、前端に木製の尖頭をつけていた。筒の尾部につけた長さ30センチの緩熱導火索2本にマッチで点火するしくみであった。
 
わずかな時間で、3人で重い破壊筒をかかえながら数10メートルを突進し、生還することがどんなに困難かは言うまでもない。一人で突進するのと違って、地形、地物を利用した防御はまず不可能である。しかも敵のかっこうな射撃対象となり、破壊筒そのものを狙われれば、一瞬にして3人とも木っ端みじんとなる。敵弾降り注ぐ戦場にあって、この作戦はまさに必死の戦術であった。
 最初の組は、あっと言うまに敵弾にたおれて失敗に終わった。破壊筒を鉄条網の中に突っ込んで爆発させるとき、鉄条の中に突っ込んで火をつけていては、火をつけるまでにやられてしまう。しかも火をつけたとしても導火線を切られれば苦労も水の泡となる。
内田徳二郎伍長は、鉄条網にたどりついてからマッチで点火する余裕はないと判断し、すでに着火した破壊筒を鉄条網に挿入するよう指示した。作江伊之助、北川丞、江下武の各一等兵の第1組はすばやく点火して前進し、第2組は点火に手間取った。第1組の先頭北川1等兵が敵弾をうけてたおれ、うしろの2人も転倒した。それを見守っていた第3中隊はどよめいた。そのとき、3人は立ち上がり倒れ込むように鉄条網に突進、破壊筒をつきだした。爆発音とともに鉄条網は壊れ大きな穴ができた。そして3人の一等兵たちも微塵に砕け散った。突撃路が開かれたのである。

(2)宴の後
 この出来事は我が国民に熱狂的な反響をよびおこした。とくに3人が、ふつうの兵卒であり、いずれも貧しい家庭であったことが、民衆の感動と同情をいちだんとそそった。遺族への弔慰金は陸軍省はじまって以来と言われるほど殺到した。真偽は知らないが、彼らのうち2人は被差別部落の出身で、そのことが評判になって熱狂は急速にさめていったという。

(3)右も左も嘘まみれ
 先の大戦では
無能で、傲慢なかつ卑怯な指揮官により多くの兵が無駄死にさせられた。インパール作戦において司令官の牟田口廉也にとって、兵の命など一発の弾丸、一個のボルトよりも低い価値しか持たなかったのである。さらに破廉恥にも戦後ものうのうと生きながらえ、部下の葬儀に出席しては「自分は責任がなかった」という内容の恥さらしな小冊子を配り歩いたという。まさに唾棄すべき男である。

「我が命は地球より重く、兵の命は鴻毛より軽ろし」 「オレは逃げる、諸君は死ね。」
牟田口廉也 富永恭次


陸軍第四航空軍司令官 富永恭次中将は、フィリピン決戦において「最後の一戦で本官も特攻する」と嘘をつき、62回約400機の特攻を命令し部下達を全員戦死させておきながら自分はさっさと台湾に敵前逃亡している。しかも、富永は一旦予備役に編入後、満州の軍司令官に任命されている。
 この二人以外にも卑怯な高級軍人は五万といたらしい。第24旅団長田中隆吉少将がその類か否か筆者は知らない。しかし上海事変における、指揮官達の無能ぶりからみても、ほぼ同類と考えても誤りはないであろう。しかも、上述したような
死と隣り合わせの危険極まりない戦術を命じ「決死隊」を組織しておきながら、「兵が死んだのは単なる事故に過ぎない」などとはよくもいえたものである。牟田口と選ぶところのない卑劣漢だと断言しなければならない。
 一方、「三勇士」などでっち上げだと宣う「平和主義者」の根拠もいい加減で、導火線の長さが違ったとか種類が違ったとかいって定まらない。確かに「天皇陛下万歳」といって死んだという国定教科書の記述は、当時の状況から見ても、また常識で考えても絵空事であろうが、
導火線を短くすれば爆発までの時間が短くなり、その分、死の危険が増すくらいのことは三勇士ならずとも誰だって分かる。それを押して突撃したのであるから、「覚悟の自爆などではなく、あくまで事故だ」と言い張るのはむしろ公平を欠くのではないか。同時に出撃したものが生還しているのは上記のように点火するのに手間取ったからであるし、第一、弾の雨降る戦場で運良く生還できたのがむしろ例外的なことであったと考えられるのではないか

5.基本に返れ
 同じ決死隊の兵が、「三勇士」など事故に過ぎないと書いていると言うが、はたして、その著者に「自分たちも決死どころか必死の思いで突撃した。自分たちも破壊筒もろとも吹っ飛んでいたかも知れなかったにもかわらず、運良く(?)死んだ三勇士ばかりが賞賛されるのは気にくわない」という心理はなかったと断言出来るのかと問いたい。
 人間に限らず生き物はみな、健康な精神状態である限り「生」を願うものである。三勇士だって別に「死にたい」と本気で願ってはいなかったはずである。しかし、彼等は36名の「決死隊」にはいった。
「決死」とは、「死ぬ覚悟で事に当たること」、死ぬ恐れが大きいが死んでもかまわないと思うことである。そして、三勇士は遺書もしたためていた。一旦は倒れ、爆発までの時間が迫っているにもかかわらず、再度突進した勇気は「勇士」の名にふさわしいと思うが、どうか。
 三勇士などでっち上げだとか、事故だとか、祖国のために勇敢に死んでいったものをおとしめる暇があったら、自ら省みて他人の名誉をうらやむ心が無いのかを問うべきであろう。

破壊筒と三勇士



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