常識はずれな「俘囚料」の解釈

 ラテン語の格言に
Homo homini lupus.人間が人間にとってオオカミであるというのがある。人類はリクリエーションとして人類を殺害していた(マン・ハンティング)。アフリカで奴隷を買い付けたり奴隷狩りを行ったりしていたヨーロッパ人たちは当然のように黒人を人間などとは思っていなかった。殷王朝が生け贄や奴隷を獲得するために周辺諸族を対象に「狩り」をおこなったように、言葉も通じない異民族を人間と見なさないのは古代における常識である。我が国の古代において、弥生人は縄文人を人間以外の下等な存在とみなしていた。そして、大和朝廷にとって蝦夷は絶対に人間などではなかった。そのことは「蝦夷」という字そのものに現れている。蝦夷の「蝦」とはエビあるいはガマガエルのことである。蝦夷は大和政権側の人々にとっては「虫けら」に過ぎなかったのである。
 さて、現代の戦いにおいてさえ、捕虜の虐待がそこらじゅうに見られる。大文明国家でも捕虜を虐待したことが露見してしょっちゅう非難されている。ましてや古い時代、異民族を人間などとは決して思っていなかった時代において、戦争捕虜がどんなにひどく扱われたかは察するに余りある。現代においても、自分たちの親兄弟を殺したヤツの一味に対してそう簡単に優しくなれるものではない。
常識で考えて古代の捕虜は少なくとも「厚遇」だけはされなかったと断言出来るのではないだろうか。
 わが国の古代史においても、戦争が繰り返され、そのたびに捕虜が生じたことは当然である。中でも征夷戦に際しては多くの捕虜が生まれた、すなわち俘囚である。725年に陸奥國の俘囚を西国に移配してから、捕虜となった蝦夷人を俘囚として主に西国へ時には板東へ移配するようになった。927年12月に完成した延喜式(巻26、主税上、勘税帳)によると、俘囚は35ヶ国に移配されたという。
続日本紀によると、「宝亀七年(776年)十一月二十九日 出羽国の俘囚三百五十八人を、太宰府の管轄内や讃岐国に分配した。七十八人は諸官吏や参議以上の貴族に分け与えて賤民とした。」とある。俘囚を労働力としてまたは兵士として利用したのである。当然、一般の良民の様な自由は認められてはおらず拘束されていたはずである。古い時代における奴隷の起源のもっとも主要なものは戦争捕虜であるが、我が国においてもそれは同じであったのだ。

 
マキャベリの『君主論』によると、人は自分をひどい目に遭わせるだろうと予測していた相手に優しくされるとその相手に対して忠誠になるという。大和政権も又そう考えたのであろうか、移配した俘囚に対し朝廷は、衣服や食糧を提供したという。各地方の予算に俘囚に「公粮」を支給するために俘囚料が計上された。そして、公粮の支給は二代限りで、孫の代には公粮もうち切られ一般平民と同じく調庸を課したという。

798年:相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲などの国の俘囚に望郷の念を持たせないように衣服や公粮を支給して待遇を改善するようにと国司に命令。
801年の格:俘囚達はまだ移配されたばかりで移配先の風俗習慣に慣れていないという理由で田租の納入が免除されている。
811年:諸國の俘囚は公粮を支給されているが、それは孫には及ばないとされている。
811年:俘囚計帳を記録するようにとの命令がだされている。
816年:(弘仁7年)には夷俘等は帰化して年月も経ったので、口分田を班給されてから6年以上経過したものからは田租を徴収すると改める、となって田租を納めるようになった。


 ところが、各地に移配された俘囚達は「公粮」や衣服まで支給されているにもかかわらず叛乱を起こしている。これは何故か。元来、俘囚と大和朝廷の臣民とは生活・習慣が異なり、言葉も通じなかった。
「夷俘の性質は平民と異なっており、なかなか馴染まない。これを教え諭して野心を抱かないようにせよ」という令が何度も出されている。しかし、814年の勅では「宮司や百姓はその夷俘の名前 を呼ばないでいつも「夷俘」と言っている。きちんと官位・名前を持っているのだからそのように言うように。」と出ている。位階を与えられた俘囚もいたが、一般平民の間では夷俘を特異なものと見ていたのである。また、俘囚は防人となっても平民より一段低い身分と見なされている。もとから朝廷支配下にいた良民達のこの様な態度に不満を募らせて反乱をおこしたのであろうか。筆者はそれだけの理由ではないと考える。従来の歴史家は俘囚に支給された「公粮」とは俘囚が食する米であるというのである。バカも休み休みいって欲しい。我が国において米が主食となったのはいつであろうか。多くの人々は弥生時代と答えるであろう。しかし、すべての日本国民が三度三度米の飯が食べれるようになったのは第二次大戦後しばらく経ってからではないのか。それまでは米を作りながら米を食べれない農民が大勢いたではないか。まして、耕地も少なく、機械化もされず、単位面積あたりの収量も少なかった古代において米を主食に出来たものがいったいどれくらいの割合いたのか。しかも稲作社会は自然の気まぐれによって容易に飢饉となる。実際平成の御代になっても大凶作がおこり諸外国から米の輸入を行ったではないか。この様に貴重な米を俘囚の食糧に供したなどというのは全く常識はずれな考え方だと断言しなければならない。言葉も通じない虫けら以下の生物であり、昨日まで自分たちの国家の敵であった連中に自分たちさえ満足に口に出来ない米を支給したりすれば、元来の住民から「逆差別だ」と大騒ぎされるのがいいところであろう。
 
筆者は「公粮」とはせいぜい種籾であったと思う。その他の支給品も最低限度のものであったろうし、支給されるまでの過程で下級役人にくすねられたりしたのが落ちではないのか。劣悪な待遇であったからこそ俘囚は反乱をおこしたのである。現に813年(弘仁4年)には「飢饉の年になると土民も俘囚もその蒙る被害は同じなのに、俘囚には救済の品々が行き渡らない。今後は平民と同じように賜ること」という命がでている。



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