アイヌの先祖は縄文人

 古代の東北地方で大和朝廷に対抗した蝦夷の記録は、記紀や続日本紀などに登場する。しかし、蝦夷にはとても謎が多い。蝦夷がどのような人々だったのかについては、明治以来、論争が続いている。蝦夷はアイヌ系の人々なのか、それとも、日本人に連なる人々なのか。それがもっとも大きな謎とされてきたのだ。しかし、よく考えてみればこの問の設定自身がおかしいのではないか。
「蝦夷がアイヌ系か否か」との問は時間的先後関係が逆になっている。正しくは「アイヌが蝦夷系であるか否か」と問うべきである。
 東北の蝦夷たちは、稲作農耕もおこなっていたが、なお狩猟・採取民としての性格が強かった。東北地方の縄文人たちの子孫が後の蝦夷になり、移住してきた朝廷支配下の人々と混血して現在の東北人になったという理解が一般的である。では、アイヌの人たちも蝦夷の子孫なのだろうか。蝦夷ケ島(北海道)にいた蝦夷の一部が、後にアイヌになったということは言えないのだろうか。
 このような説は、アイヌ民族は白人だという説が支配的だったこともあって、保守本流の歴史学者では受け入れられていなかった。アイヌは顔の凹凸が大きくて、中には緑色の瞳をした人もいる。蝦夷のようにただ朝廷にまつろわない人々というのとは次元が違うというのである。余談であるが、アイヌが白人だという説がヨーロッパで関心を呼んだという。ヨーロッパ人は元々狩猟採取民だったが牧畜や農耕の時代になって森がすっかりなくなってしまった。今では森で狩猟採取している本来のゲルマン人はいない。ところが、極東の島国でアイヌという白人が未だに森で狩猟採取しているということで、俄然脚光を浴びた。ナチスはこれを日独同盟に利用し、日本人はアイヌの子孫だからアーリアンだという宣伝をおこなったそうである。

東北地方のアイヌ語地名
 地名は、その土地に生活した人々の使っていた言語の痕跡であり、土地の歴史を刻み込んだ貴重な文化遺産でもある。在野の研究者として50年以上にわたって、徹底した現地調査による、北海道や東北地方のアイヌ語地名の研究を続けた山田秀三は、東北に残るアイヌ語地名と思われる例について、詳しい検証を行っている。例えば「ナイ」は「ベツ(ペッ)」とともに北海道にはどこにでもある「川・沢」の意味のアイヌ語地名であるが、阿仁川筋ではどの沢をとってもナイ地名で埋まっている。米内沢はイ・オ・ナイ(蛇・多い・川)、笑内はオ・カシ・ナイ(川口に・仮小屋ある・川)、浦志内はウラシ・ナイ(笹・川)であるという。その他、柳(シュシュ)、タブコプ(たんこぶ山)、インカラ、サッ、エんルム(岬)等々である。
 そして、
「蝦夷が生活していた土地に、大和言葉ではない地名があり、それこそが蝦夷語の傷痕といえるのではないか」と述べ、
「仙台から秋田・山形県境付近にかけての線から北方に、一段と濃く分布するアイヌ語地名こそ、蝦夷が残した足跡であり、北東北の蝦夷はアイヌ語を常用していた。つまり、蝦夷はアイヌ語族だった」
と結論づけている。

 日本語の場合がそうであるように、現在知られているアイヌ語と千年前のアイヌ語とでは当然相当の違いがあるであろう。山田秀三の研究は、現在知られているアイヌ語をもとに検討したものであるから、実際には、さらに多くのアイヌ語地名が残っているのではないかと、筆者は感じている。
 偶然一、二の地名が現代アイヌ語で説明出来るからといって、その地方にアイヌが住んでいたと断言するのは早計である。しかし、逆に数多くのアイヌ語地名が残っているにもかかわらず、アイヌが住んでいなかったというのも論理的ではない。アイヌの先祖である蝦夷が少なくとも北部東北に住んでいたのは確実と言うべきであろう。

理訓許段(リクコタ)神社
 岩手県陸前高田市の中心部から、氷上山へ向かうと、氷上山の南西麓の高田町に氷上(ひかみ)神社が鎮座している。氷上山の上には、西宮・理訓許段神社、中宮・登奈孝志神社、東宮・衣太手神社の3社が鎮座しており、氷上神社は里宮にあたる。古来は、山麓に3社が別に存在していたらしいが、中世、修験道の山岳信仰により、山頂に集められたという。
 氷上は日高見であろう。理訓許段神は千年前には、この地方の蝦夷の神であった。

 理訓許段を素直に読めば「リクンコタン」となる。「リクン」は、アイヌ語で「高い(所に)・属する」である。「コタン」は村とか郷の意味である。合わせて、高所にある村、がリクンコタンの原義と思われる。

 岩手県大船渡市赤崎字鳥沢に、本来の理訓許段神社に見るべきとの説もある尾崎神社がある。
尾崎(おざき)神社の神宝の稲穂は古代アイヌの祭りにつかわれたアイヌ語で「神にささげるもの=イナウ」である。つまり、蝦夷はアイヌ語の名を持つ神を祭りアイヌと同じ捧げ物を神に祀ったのである。

 アイヌ語を話していたからといって、それらの人々がすぐにアイヌ人であったとはいえないとの考えもある。確かに、英語を話すからといって全てアングロ・サクソン系の白人という訳ではない。ハワイの先住民も、香港の中国人も、インド人も、アフリカの旧英国領の人々も英語を話す。しかし、敗戦の後しばらく米軍に占領された日本人でも英語を日常会話に使ったりはしない。要するに英語を日常的に使用している人々は全て、英国からの移民によって建国された国またはそれらの国々の植民地である。古代の東北が北海道からアイヌの人々に征服され植民地になったとでもいわない限り、アイヌ語を話していた古代東北の蝦夷は、アイヌの人たちの先祖と同一な種族であったはずである。しかも神社の名がアイヌ語で理解され、神宝までが共通しているのである。さらに、
考古学の知見によれば縄文よりこの方、弥生・古墳時代に並行する時代にいたるまで、東北北部と北海道南部はつねに共通の文化圏に属していたのである。いったい何故、古代蝦夷がアイヌの祖先であってはいけないのであろうか。筆者は不思議でたまらないのである。

参考文献
梅原猛・埴原和郎共著『アイヌは原日本人か』小学館1993年
梅原猛・藤村久和編著『アイヌ学の夜明け』小学館1994年
工藤雅樹著『蝦夷の古代史』平凡社新書
山田秀三・著『東北・アイヌ語地名の研究』草風館1993年



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