Qui desiderat pacem, praeparet bellum.平和を望む彼をして戦争に備えさせしめよ。

黄海海戦 日清戦争

 学校の頃、担任の女先生が歴史を教えてくれた、日清戦争のところで教科書に青龍刀を担ぎ、縁にトゲトゲの付いた大きな旗を持って行進する清国軍の絵が載っていた。女先生曰く、「日本軍は近代的な軍隊で大砲や鉄砲で戦ったが、対する清国軍は時代錯誤の軍隊で昔ながらの刀や槍などの武器で戦った。だから、戦う前から日本軍の圧勝だった」。しかし、調べてみると、事実はかなり異なっていた。

1.日清戦争は開戦前から、英露の世界戦略の中で戦われた戦争であった。
2.日清戦争は極東の均衡に決定的な影響を与えた。
3.ゆえに、日清戦争は決して極東の地域紛争などではなく、世界史的な意義を持つ戦争であった。

 
清戦争に敗北する前までの清国は、確かに次々と領土を失っていったが、取られた領土は、島か辺境、あるいはビルマ、安南等名目的な宗主権を持っていた地域だけで、中国本土の安全に直接関係があるようなところは手放してはいない。また、必ずしも基本的な国力、軍事力の弱さからの敗北と言うより、時の政府の無能、辺境領土に対する関心の薄さ、あるいは近代帝国主義の扱いの不慣れなどに起因するところが大きかったのである。しかも、北京条約以降は立ち直り、富力にまかせて海軍を拡張した中国は、隠然として世界列強の一つであった。

 
「清国の富強、日本の貧乏」これは日清戦争の直前まで議論の余地のない事実で、清国の北洋艦隊は東洋一の近代的大艦隊であった。明治十五年、福沢諭吉は、「支那の海軍は今でも日本の三倍近いが、今後ますます増強して、琉球回復などと言って戦争をしかけてきたらどうなるだろう。最近の戦争は勇気でなくて武器で決まる。もし日本が負ければ、清国兵は日本に上陸してどんな乱暴をするかわからない。」と書いて国防の急を説いている。

 
ころが、西太后は建鑑費をイ和園をつくる費用に流用してしまった。この事が中国にとって百年の悔いを残すことになったのである。一方、日本は軍拡を図った。清国に指摘されていた通りの窮乏財政で財源の捻出が出来ず、明治19年には建鑑公債を発行し、明治二十三年には明治天皇の御内帑金下賜と国民の建鑑寄付運動で何とか建鑑を続けた。明治二十六年議会が建鑑費を全額削除すると、明治天皇は六年間宮廷費を節約して毎年三十万円を下賜され、官吏は六年間月給の十分の一を建鑑費に返納するということになり、議会も一転して大建鑑計画を満場一致で採択した。そして日清がほぼ同等に達したとき日清戦争に突入したのである。

 
奥宗光は『蹇蹇録』に日清戦争の発端が日本による意図的なものであったことを赤裸々に記している。清国が弱小日本に負けて、みるべき軍事力も財力もないとなったとき、欧米列強は好機を見逃さず、わずか三、四年の間に中国を大帝国から半植民地に転落させたのである。

下関講和会議

参考:『戦略的思考とは何か』 岡崎 久彦 中公新書700



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