第三十四 條約改正と法典制定
大日本帝國憲法成り、帝國議會の始めて開かれし頃、諸種の法典は順次編成施行せられ、國民をして生活に安んぜしめしのみならず、また延いて條約の改正を促進したりき。
ささに江戸幕府が歐米の諸外國と締結せる安政假條約は、當時海外の情勢に詳かならざるより、一にハリスにまかせてその草案を作らしめ、ハリスもまた好意を以てこれに努めたりしも、なほ法權・税權共に我に不利にして、國權の毀損せられたる點また少からざりき。すなはち關税の自主を得ずして、海關税は締盟國との協定に限られ、また治外法權を許して、在留外國人の犯罪は、その國の領事が自國の國法に照らしてこれを斷ずるにまかせたるが如きは、その著しきものたり。されば、かゝる不利不面目なる條約の改正は、上下多年の宿望にして、さきに岩倉大使の一行歐米巡廻の際、まづ米國に渡りて、條約改正に對する我が希望を通ぜしに、大統領グラントは改正に同意を表せしかば、直ちにその議を開かんとするものありしかど、事遂に行はれざりき。ついで明治十一年に至り、時の外務卿寺島宗則はまづ税權の回復をはかりて、關税率の引上を期し、米國政府とやゝ有利なる新條約を結びたりしが、他の諸國はいづれも我が提議に應ぜざりしのみならザ、國内に於ても、法權を回復せずんば、税權の行使はたうてい完きを得ずとの論起り、まづ治外法權の撤廢を主張するもの多かりき。井上馨代りて外務卿となるや、更に協定して海關税を増徴し、外國法官を任用して治外法權を撤廢せんとの案を立て、從来の國別談判の法によらずして、各國使臣との合議制によりてこれを決せんとし、なほこれを遂ぐるの方便として、盛に歐風を社會にすゝめて、樽爼の間に圓滑に改正の促進をはかれり。かくて協議を重ぬること二十餘回に及び、二十年改正案まさに決せんとしたるに、その條款に朝野の反對を受け、加ふるに極端なる歐化主義は、かへつて國民の反感を買ひ、やむなく政府はその改正を中止せり。ついで二十一年大隈重信外務大臣となるに及び、強硬なる態度を以て、國別に談列を開きて改約をはかり、米・獨をはじめ逐次諸國の同意を得るに至りしに、その改正案の内容が洩れて、一たびロンドンタイムス及び横濱へラルド新聞紙上に掲載せらるゝや、その條款多く馨の立案と異ならざるを見て、反封の聲は猛然として再び朝野に起れり。殊に外人の法官任用は國憲に違背せるものなりとて、激しくこれを攻撃するもの多く、遂に刺客ありで爆裂弾を重信に投じてこれを傷くるに至り、改正の事また蹉跌したり。
かくの如く條約改正の難問は維新以来幾多の波瀾を起して、多年の間容易に決定を見ざりしが、そは我が法典が未だ完備せずして、我が國情の外人に認められざるに起因するところ少しとせず。もと江戸時代には、法制は地方によりて區々たりしを以て、維新の初、政府はまづこれを統一せんとはかり、大寳律令の制に明・清律を参酌して、明治三年新律綱領を制定し、始めて囚人に作業の制を創め、職業教育を施し、また教誨師をして教化に當らしむるに至れり。されど未だ完からざるを以て、司法卿江藤新平は、更にこれに西洋諸國の法律を加味して、新に改定律例を作り、六年これを頒布して、從来の酷刑を廢し、大いに舊来の面目を改めたりき。しかしてこれらの法典を編成するに際しては、さきに天皇の詔したまへる法は寛恕を旨とせよとの聖旨を奉體して、刑の軽減に努め、爾後ますます改善せられたりしなり。その後社會の進歩につれて、法律の完備はいよいよ必要に迫りし上に、治外法權の撤廢を急務とするを以て、あるひは法律に通暁せる、歐人を聘し、あるひは留學生を派遣して研究せしめなどして、諸種の法典を編纂し、成るに徒ひてこれを施行したり。まづ十五年には、さきの新律綱領・改定律例を廢して、新たに刑法・治罪法を、二十三年には、裁判所構成法及び治罪法に代れる刑事訴訟法を、二十四年には、民事訴訟法をそれぞれ制定施布しぬ。これらはいづれも、西洋の法律を採り、これに我が國の慣習を参照して審査攻究せるものにて、我が法治國の體面やうやく備りたり。
かくて各種の法典編成施行せられ、立憲政體さへ確立して、我が國の眞價やく海外に認められしかば、條約改正の交渉も、また前日の如く困難ならざるに至れり。よりて外務大臣青木周蔵は、外國の法官を採用せざる條件の下に、まづ英國と對等條約を議し、二十四年締結まさに成らんとせしが、たまたま大津事件に周蔵責を負ひて辞職せり。翌年陸奥宗光外務大臣となるや、鋭意これが解決をはかり、おほむね青木の案を基礎として新に改正案を作り、當時ドイツ駐箚公使たりし周蔵に英國駐箚を兼ねしめて、英國政府に交渉せしめ、遂にその同意を得て、二十七年七月始めて調印を了せり。然るにたまたま日清戦役の勝利に、我が國の實力を世界に示したることは大いに談判の進行をたすけ、各國との改正條約相ついで成りて、三十二年より實施せられたり。こゝに於て、治外法權は全く撤廢せられ、外人も内地に雑居して我が法權の支配を受くるに至りしが、たゞ税權の回復は未だ完からず。すなはち關税は引上げられたりといへども、なほ片務的協定にして、我が國の輸出品に封しては、その國の定むるところの税率によるにかゝはらず、我が國への輸入品に課すべき税率は、その國との協定を經ざるべからざることとなれり。されどこれも、後、四十四年外務大臣小村寿太郎によりて改正を終へ、關税に就きても自由に我が權利を行ふことを得、こゝに我が國は歐米諸國と對等の地位を占め、國民多年の宿望始めて達せられぬ。
新條約の實施せられし頃、新に法典の施行せられたるものまた少からず。政府はかねて西洋の法制にならひ、我が國の習慣を交へて、民事及び商事に紺する法規を編纂したりしに、三十一、二年に至りて、いよいよ民法・商法として各々これを施行し、わが法典はほゞ完備しぬ。なほ刑法は、時勢の推移につれて、更に改正の必要起り、四十一年より新刑法の施行を見るに至れり。かくて法典の編成は、條約改正と相伴なひて進み、諸種の法制いよいよ備りて、大いに社會の發達に寄與したりき。


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