第十一 武士道
武家政治はじまりて政治の面目一新すると共に、社會の氣風も大いに改り、全く前代と趣を異にするに至れり。蓋しこの氣風の由来するところ古く、さきに武士の勃興するや、各々その家名を重んじ、節義を尚びしかば、戦陣に臨みても、まづおのが家系より祖先の功業を名乗り合ひて後、悠然として刃を交ふるを常とし、互いに武勇を競ひてひたすら家名を揚げんとせり。かの宇治川の先陣争、一谷の組打または屋島の扇の的など、源平抗争の際に於ける美談は、殆ど枚擧に遑あらず。頼朝に至りては、東國勇武の地に據りて専ら士風の養成に力め、厳に將士の卑怯・未練を戒むると共に、戦功あるものは直ちにこれを褒賞し、またしばしば那須の篠原・富士の裾野などに卷狩を催し、常に笠懸・流鏑馬・犬追物などの武技を練修せしめたれば、鎌倉武士は一般に勇武にして、頗る剛健なる氣風をなしぬ。北條氏また頼朝の遺志を體して、泰時・時頼などいたく文弱の弊を矯め、よくその士風を維持せしより、ひいて社會の風儀も大いに改善せられたりき。
頼朝居常素撲なる生活を送り、清廉を以て下を率ゐ、厳に部下の利欲の念にかかはるを戒め、また華奢の風をなすものを懲せり。ここに於いて士風ために一變せしが、泰時また無欲をもって政治の要諦となし、時頼もよろづ簡素を旨とし、共に質素倹約を奨めたれば、人々勤倹に勵みて、日常の生活も頗る簡易となり、その衣食の粗略なるは素より、住居も王朝の寝殿造よりいはゆる武家造にかはりて、簡素と實用とを主とするに至れり。
かかる間に、主從互いに恩義を重んじ、死生相結託するの道義もおのづから武士の間に砥勵せられたり。さきに奥州の勇士佐藤繼信は、その主義經のために壮烈なる忠死を遂げ、相州の豪族三浦義澄ら、父の最期の遺訓に感激して、遂に頼朝のために大功を樹てたるの類、その例に乏しからず。頼朝特に孝義を重んじ、嘗て伊東祐泰の平家に走るにまかせて、義士の名をなさしめ、また平泉の家臣河田次郎の不義を厳罰し、孝子曾我の兄弟を惜しみたるが如き處置は、自然に孝義の精神を涵養して、遂に恩誼のためには死を顧みざるの士風を養成しぬ。後、鎌倉の亡ぶるに當り、執權北條高時、すでに人望を失ひしにかかはらず、その先塋の地東勝寺に立籠るや、一族・郎等八百餘人悉く集り来り、枕を竝べて自刃したるは、さすがに鎌倉武士の義烈を偲ばしむ。
當時の武士は、おしなべて剛勇なるうちに、一面文雅の道を辨へ、禮節を守りて優しき言動を残ししもの少なからず。嘗て薩摩守平忠度は、あわただしき都落の折にも、深夜おのが和歌の師藤原俊成の門をたたきて、年ごろ詠み集めたる一巻をあづけ、はじめて心おきなく落ちゆきしが、やがて一谷の戦に箙に収めし秀歌と共に、須磨の渚に花と散り、梶原源太景季は、咲亂れたる梅が枝を箙に挿しそへて、芳名を生田の森に留め、あるひは奥州征伐に白河の關をよぎりては、忽ち懐を能因法師の「秋風」に寄せて、一首の即興に大將頼朝の旗風をたたへたるが如き、以て武辨風流の一端を察すべし。將軍實朝は和歌を藤原定家に學びて特に斯道に長じ、その歌調の雄健、巧に萬葉の古風を存し、歌想の壮烈、よく武夫の氣象を表し、實に奈良時代以後その比を見ざるところなりといはる。執權泰時も和歌風流の道を嗜みて、頗る禮譲に富み、時頼また恬淡にして、永くその高風を慕はる。ついで北條氏の名族實時武州金沢に退居し、稱名寺内に文庫を建てて、和漢の群書を集め、講學の便に供したりしが、その子孫累代學を好み、蓄籍年とともに加り、鎌倉の子弟のここに遊びて經史に親しむもの少なからず、鎌倉武士の風尚はここにもつちかはれたりき。後、實時の後裔貞將の鎌倉の滅亡に殉ずるや、「棄我百年命報公一日恩」との一絶を書し、これを鎧の裏に収めて、最期の義勇を飾りきといふ。
また、盛衰興亡の激烈なる當時の社會は、人々をしておのづから現世の夢幻を感ぜしめしが、さなきだに修羅の巷に出入りして、絶えず悲慘なる實況に直面する武士は、榮枯定めなき人生の無常に感ずるの念もまた頗る強きものあり。かの關東の勇士熊谷直實が敦盛を斬りて發心し、院の武士佐藤憲清が同族の頓死に忽ち世を棄てたるが如き、猛きが中にも情愛深きの事例は、皆これがために外ならず。從ひて宗教の信仰は一般に盛なりしが、特に頼朝は神佛を尊信するの念深く、あるひは東大寺を再建して盛大なる供養を修し、あるひは結構善美を盡くせる鶴岡八幡宮を起してみづから厚くこれを崇敬し、以て部下を率ゐたり。北條氏またその志を繼ぎ、泰時は夙に教えを京都栂尾の僧高辨(明恵)に受け、また貞永式目の劈頭に社寺を修造して祭祀・佛事を勤行すべきことを諭し、時頼その子時宗らは共に熱烈なる禅宗の信者にて、その修養によりて悟道を開き、部下の將士も専念佛道に歸依して、安心立命の境に達するもの少なからず。かくて當時の武士は神佛の信仰によりておのづから敬虔なる信念を養ひたりき。
かくの如く、武士の美風はおほむね源平二氏の養成するところにして、特に頼朝の鼓舞奨勵の間に涵養せらる。これを武士道と稱し、その精神は永く後世に傳はりて、國民道徳の一要素となりぬ。

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