国民を愚弄する嘘つき文部科学官僚
2001年03月11日の某地方紙に共同通信が配信した「教育改革」についてのインタービュー記事が載っていた。その中で文部科学省の寺脇研という審議官がインタビューに答えたコメントを一つ一つ見ていくことにする。
@「小中学生の場合は、低下の証拠はないし、いろいろな調査によってもそれほど下がってはいないということでしょう。大学生の方は当然あるし、私たちも憂慮すべき問題と考えている。来年からの教育改革(新学習指導要領など)で、大学生の学力を上げることができると思っています」
筆者のコメント
小中学校の学力低下はないが、大学生の学力低下はあるというのなら、じゃあ高校で「アホ」になった証拠でもあるんですか、お役人様。
A「基本的に学力について、みなが同じことをやって同じ力をつけるという考え方でやってきた。明治以来。それを大きく転換させようというのが今度の改革です」
筆者のコメント
嘘をおつきになっては困ります。「みなが同じことをやって同じ力をつける」というのは、せいぜい戦後の「民主教育」とやらになってからでしょう。それまでは「尋常小学校(国民学校)」以外、本人の学力もさることながら家庭の経済力などの諸事情によって様々なルートがあったはずですよ、お役人様。
尋常小学校さえ行けなかったもの、小学校卒後のコースでも、中学校へ行くもの、高等小学校に行くもの、商業学校、工業学校、師範学校に行くもの、更に幼年学校なんかに行ける人もいましたね。中学校卒後だって、少数のエリートだけが高校に行けたんでしょ。頭はいいが金がない人が兵学校や士官学校に行ったし、高校に入る実力がなければ高等師範やら医専やら一杯コースがあったはずですよ。
B「金太郎飴(あめ)のように、どこを切っても国語も数学も社会も人並みにするのではなく、国語は九十点だが、数学は二十点の子や、その逆の子がいて、それぞれいいところを伸ばせるようなシステムにしていこうということです」
筆者のコメント
やっぱり数学二十点や国語二十点では困るんじゃないですか。最低限の論理的思考能力もない大衆を増産しようとでも言うのなら別ですけどね。
C「発達学には、ゆっくり教えた方がよいという考えもある。誤解があってならないのは、単に全部ゆっくりやって少なく教えるのではないのです。つまり、みながそろってやっていることはゆっくりして少なくなっても、そのプラスアルファを今まではやらせなかったのを、やりたい子にはやらせるようにする」
筆者コメント
「発達学には、ゆっくり教えた方がよいという考えもある」と言うことは、なるべく小さいうちに多くを教えた方がよいという考えもあると言うことですね。昔から「鉄は熱きうちに鍛えよ」と言いますからね。
「プラスアルファを今まではやらせなかったのを、やりたい子にはやらせるようにする」・・・ここが一番問題なんですよ。どこでプラスアルファを教えてくれるんですか。要するに学力を付けたければ、塾に行かせたり、家庭教師をつけろと言うことですよね。だって「みながそろってやっていることはゆっくりして」たら授業時間おわってしまいますからね。
D「批判は減る部分ばかりとらえているけど、増える部分もある。ただ子どもによって増える部分が違う。何がなんでも覚えてもらう漢字の数は減らすが、たくさん覚えたい子には教えるわけです」
筆者コメント
誰がどこで教えるんですか?
E「それはできない。週七日、一日二十四時間で教えるという話になっちゃう。子どもの心と体のバランスを考えなきゃいけない。自殺とか登校拒否とか、子どもがSOSを発している」
筆者コメント
出た、出た、また出た、遂に出た。一体どこに学習量と登校拒否や自殺との因果関係を示す証拠があるの?
F「一方通行のやり方も変えましょう。黒板に書くだけじゃないきめの細かい授業や、例えば算数をもっと勉強したい子を教えるために、一つのクラスに二人の教師を付けるとか。『総合的学習』もそのために打ち出したんです」
筆者コメント
さっき、「みながそろってやっていることはゆっくりして」と言ったじゃないですか。そしたら授業時間はおわってしまいます。『総合的学習』時間というのは各生徒がそれぞれ好きなことをする時間ですか。俺は体育がしたい、いや俺は絵が描きたい、いや俺は音楽だ、習字だ、読書だ、やっぱり計算問題をやりましょう、いえいえ漢字の練習にしましょうよ。本当に二人の先生で面倒みられますか。それとも二班に分けて授業でもしますかね。
G「皆に教える内容を増やせばまた黒板に向かってという姿に戻っちゃう。十教えても分かっていないのが三ある。それなら七をきちんと教えた方がいい。もう一度言えば、一人ひとりに教える内容は増えると思っていますよ」
筆者コメント
「十教えても分かっていないのが三ある。それなら七をきちんと教えた方がいい。」・・・いかにももっともらしいお言葉ですが。十教えて十理解できる子もいれば一や二しか理解できない子もいるわけですよね、実際は。平均的な理解度に照準を合わせるなら今までのやり方と同じだし、もしも理解度の低いものに合わせるという意味なら、学力低下は不可避ですよ。だって、時間は一定しかないわけですから、理解力の高い子供にとっては無駄な時間を過ごすことになりますからね。
筆者は十教えて平均して七理解しているなら、なかには十全部理解している子もおり、九理解しているものもいるわけで十教えた方が効率的だと思いますけど。七きっちり教えたら本当に全員が七理解できるんでしょうか。
H「土日は社会的活動やスポーツをする。遊びを通して学ぶことも欠けているんじゃないでしょうか。知育をもっと幅広くとらえていくべきでは。英数国の得意な者ばかりが社会の勝者にならないように」
筆者コメント
「遊びを通して学ぶことも欠けているんじゃないでしょうか。」・・・その通りですね。でも学校で勉強を教えてくれないから塾とかに行くんじゃないですか。何度も言うように時間は一定しかないわけですから。
「英数国の得意な者ばかりが社会の勝者にならないように」・・・全く話にならない妄説である。この主張は以下の三つに分解される。
1.社会には勝者と敗者則ち優位なものと劣位なものという身分的序列が存在し、かつ、それが当然のありようであり、前提である。
2.今まで、その勝者と敗者の序列を学力で決定してきたがそれは誤りである。
3.これからは、遊びや社会活動で得た知識や経験も加えた序列づくりをしなければならない。
則ち、このお役人は、社会には役割分担ではなく身分的序列があるのが当然で、それを努力したものとしないもの、能力があるものと無いものを比較的客観的に見られ事前にわかりやすい基準で示されうる学力原理ではなく、曖昧模糊とした「人格やら世渡り術の様なもの」の優劣で決めましょうと言っているのである。
筆者はこの考え方に反対する。世の中にはいろんなヤツがいるのが当然で、それぞれの立場、それぞれのやり方で社会に貢献しているのではないだろうか。そしてそれらの活動が社会にとって必要だからこそ実際この世の中に存在しているのである。人はそれぞれ、この社会において、その能力に応じて互いに社会的使命を果たし合っているのである。
筆者は、各々が自己に目覚め、個性に徹し、人間を身分的に序列づけるのではなく役割を分担し合っている社会が真に平等な社会であるとおもう。さらにいえば、一部の似非文化人、亡国左翼文化人達の主張する、人工的に画一化された平等は悪平等というべきである。
教育改革を言うのであれば、先ず上記1.の考え方をこそあらためるべきである。そしてスポーツや芸術の才能を持つものがその才能を自由に開花できるようにしてあげるのが正義であるように、学問の分野において才能あるものの芽を摘んではならない。また、適材適所こそ正しいのであって、論理的思考能力や、素早い判断力、大局観を持たないものが国家の指導的立場に立ってもらっては国家国民が大迷惑だし、企業のトップに経営の才能が無いものが立っては社員は塗炭の苦しみに会うであろう。
更に各人の能力を見極め、能力を開花させて社会を発展させるためには、人間の本来的な性質である競争心を適当に刺激する必要がある。競争にはルールが必要であり、そのルールは分かりやすく公平に示される必要がある。一部のものだけが知っているルールや、客観性に欠けるルールでは判定に不服が出て当然である。公平公正なルールとそれに基づくジャッジであれば人は従うことが出来るのである。