疑似歴史学(6)
Z.疑似歴史学の動機
擬似歴史学は何故生まれるのか。その理由はただ推測するしかない。データを歪曲し、ある時は実際以上に強調しすぎ、ある時は強調しなさ過ぎることによって事実をでっち上げる。そのような方法を巧妙に駆使し、疑似歴史学は「権威ある」学説になった。
(1)縄文弥生連続説と皇国史観
「天子様ハ天照皇大神宮様ノ御子孫様ニテ此世ノ始ヨリ日本ノ主ニマシマシ・・・神サマヨリ尊ク・・・」(奥羽人民告諭、明治二年)
明治政府は『日本書紀』を疑うことを許さない聖典とし、皇室は世界が出来てからずっと日本国の王であって、渡来、移住などはいちいち言及する必要もないほどもってのほかであるとの考えであった。邇邇芸命はあくまでも天から降臨したのであって、海を渡ってきたのではないのである。このように、いわゆる皇国史観は、『日本書紀』の記事を全て事実として歴史を理解したのである。ついでながら、マルクス主義史観も、やはり『日本書紀』記載の事件そのものについて何ら疑問を抱かず、ただマルクス主義に基づいた「解釈」を行ったにすぎなかった。
(2)縄文弥生連続説と津田史学
多くの日本国民は日本人=単一民族国家論について何の疑問も感じていない。大抵の日本人は「日本人は昔から日本に住んでいた。途中帰化人などが流入してきたが日本人の基本は昔から日本に住んでいる日本人である。」と思っているのが現状である。外務省は国際連合に毎年提出している報告書に「日本には少数民族はいない」と書いていたという。この考えはまた歴史学会の本流の考えでもある。
戦後の歴史学会の基本潮流を形成した津田史学なるものがある。津田左右吉は一九一三年の初著作『神代史の新しい研究』において記紀が史実とはとうてい考えられない「作り物語」であることを説き、古代において天皇家と臣民が血族だという思想が生じた理由として、「事実において我が国民が人種を同じくし、言語を同じくし、風俗習慣を同じくし、また閲歴を同じくしている同一民族であるからであり、従って、皇室と一般氏族との間が親愛の情を以て維がれてゐるからである」と述べている。
つまり、津田は記紀を史実と見なさないことで単一民族論を主張しようとしたのである。なお、マルクス主義者達も『日本書紀』を否定して見せた津田史学を高く評価した。
(3)縄文弥生連続説と清野・長谷部の人類学
1930年代前半までは日本民族混合起源説を維持していた長谷部や清野は皇民化政策が本格化した1938年頃からその論調を変え混合を全面的に否定するに至る。人類が発祥してすぐに「日本人」は「日本」の地を占拠し以後連綿と現在まで続いていると主張する。日米開戦5ヶ月後、大東亜建設審議会が大和民族の純血維持をうたった答申を出す直前の1942年4月に、長谷部は企画院次長あてに、「大東亜建設に関し人類学研究者としての意見」と題する意見書を提出している。その中で、「日本人」は洪積世には「日本」に住んでいた。高天原は外国ではない。なぜなら洪積世には「日本」に動物がいたからである。「人跡」はこれから探すのだという。しかも、列島の石器時代人は即ち日本人であり、その文化は当時から「極めて特殊なるもの」で「近代のアイヌやボルネオのダイヤクなどに比べて「優越」していたと主張している。そして朝鮮人をはじめ周辺人種とは全く違う「日本人」の特殊性を強調し「日本人は生まれながらにして大東亜の貴要たる特殊性を有す」という。しかも、人口増殖は皇国存立興隆の基のみならず、大東亜建設遂行の根底なり」といい、人間には「良質」「凡質」「悪質」の三種があり、凡質には教育、悪質には断種による除去が必要であるとする。そして、朝鮮人との混血を防がないと「凡質」が増えるから処置を講ぜよと主張している。一方、清野謙次も『日本民族生成論』において「皇国のありがたさ」「日本民族の独自性ある生い立ち」を「数理」から立証した自説を読んで「日本国民としての自覚を増していただきたいため」にこの本を書いたとのべている。
しかし、ナチスの「科学的」人種理論となんと瓜二つの議論であることか。驚くべきは、諸外国ならこのような「人種理論」を垂れ流した学者は、大戦終了後には学者生命を失ってしまうのに、これらの大先生方が戦後も引き続き学会の泰斗として君臨し続けたことである。