疑似歴史学(4)
X.「縄文弥生不連続説」の仮説系
縄文弥生不連続説すなわち縄文人≠弥生人との考え方の仮説系は以下のようである。
1.日本列島には元来縄文人が居住していた。
2.B.C.350ごろ中国大陸あるいは朝鮮半島から九州北部に水田稲作と金属器を携えた人々が移住してきた。
3.移住してきた弥生人達は先住縄文人をあるいは追い出し、あるいは殺し、あるいは奴隷化し、あるいは陵辱しながら東漸していった。
「縄文弥生不連続説」のストーリー
水田稲作と金属器の知識と技術を持った「弥生人」は大陸における戦乱に敗れたか戦乱を避けるために九州に渡ってきた武装難民である。そして、それまで列島に盤踞していた縄文人を、あるいは殺し、あるいは追い出し、あるいは奴隷化しながら次第に東進していった。
日本列島には、元来、縄文人が盤踞し、その人口中心は東日本にあった。縄文人達は、狩猟・採集を基盤にし、定住と異動を繰り返す生活を営んでいた。農耕は縄文人の食糧確保の一手段であり、定住生活を営むための欠かせない要素であった。しかし、弥生時代と異なり、農耕を基盤とした生活ではなかった。
B.C.350ごろ、長江流域に住んでいた人々の一部が戦乱を逃れ、朝鮮半島を経由、あるいは直接に九州北部に水田稲作、高床式建物、金属器等の文化を携え移住してきた。彼等は戦乱から逃れた武装難民であり戦いと駆け引きに慣れたマキャベリストであった。
一般に、農耕社会は定住生活を営み大きな労働力をつぎ込んでまわりの原野を開拓して耕地にする。先住の縄文人達は弥生人の奴隷として働かされ、弥生人の子を産んだ。縄文人の狩りや採集の社会とことなり水田稲作による安定的な食糧供給は、気候不順による飢餓の危険などのリスクをはらみながらも基本的には人口の増加をもたらした。ある集団の人口はその集団の食糧生産力に依存して増減するから、生産力の高い弥生人集団の人口は当初移住してきた人口がたとえ少数であっても人口増加率の低い縄文人の人口を圧倒していった。
弥生稲作が縄文農耕と大きく違う点は、「稲作イデオロギー」と呼ぶべき思想であった。米は食料の一つではなく価値観の源泉であった。それを損なうものは害虫、害獣、害人であり「穢れ」たものとして排除された。
弥生人の子孫達は近畿地方を中心とした王権を形成しさらに組織的に縄文人達を征服していった。縄文時代人と弥生時代人、古墳時代人の形態上の相違は、混血によるものである。
元来、縄文文化と縄文人口の中心は東日本にあり、また中部山岳の峻険な山並みによっての王権の進出は一旦フォッサ・マグナの辺りで停止した。しかし、おそらく水田稲作の寒冷地適応とさらなる耕地の拡大を期して近畿政権は関東平野に達した。そのときから王権側の人々から「蝦夷」と呼ばれた東北以北の縄文人たちは頑強に抵抗し、桓武天皇の御代にいたって組織的な抵抗を停止した。しかし、蝦夷の末裔達は源頼朝によって奥州藤原氏が滅亡するまで独自の政治的、文化的伝統を維持した。
「縄文弥生不連続説」への反論
1.発掘品等の研究等から、集団渡来は考えられない。 例えば、土器でみると、縄文土器と弥生土器は連綿とした繋がりを持ち、かつ、違いが殆ど無い。
土器に縄文以来の伝統が残っていることが集団渡来がなかったと言う証拠にはならない。集団移住してきた武装難民達は男を皆殺しにし、女性を性的奴隷にしたのである。縄文時代には土器作りは主に女性の仕事とされていたため当然のように縄文土器の技術は残った。
2.半島に一番近い北部九州地域でも縄文以来の技術が残っている。
1.と同じ理由で当然の結果である。
3.石器と鉄器には能力・威力にさほどの差異はない。
石器と金属器を単純に斬り結ばせればあるいは威力に差はないかも知れない。しかし、たとえば同じ槍でも柄の長さによって戦術的な優劣がある。剣でも長さによる違い、持ち運びやすさの違い、使い勝手、手入れのしやすさの違い、何より大量製造の可否と品質管理の違いがある。
さらに、戦いには武器のみならず、兵站の確保や諜報・謀略を含めた戦略の善し悪しが大きく関わる。日本武尊の熊襲、出雲、蝦夷に対する戦いでも、征夷戦争でも、これらが朝廷側の本質的な勝因となっている。