日本人の多様性

 
岸戦争の頃、テレビカメラの映し出すイラクの人々を見て筆者が一番印象に残っているのは、なんと言っても、どの男性の顔も同じに見え、全ての女性が同じ顔に見えたことであった。それに比べてわが日本人の顔はなんと多様性に富んでいることか。丸いの、長いの、彫りが深いの、浅いの、二重瞼と一重瞼、色白、色黒、エラの張ってるのとそうでないの、とまさに千差万別で外国人から見ると、とても単一の民族には見えないと言う。

 
近、遺伝子DNAについての分析が比較的容易になった。そこで、古い人骨からでも取り出せて、分析も容易なミトコンドリアのDNAの比較検討によって日本人の来た道を探ろうという試みが盛んである。NHKでも以前DNAについてのスペシャル番組の中で日本人のミトコンドリアDNAのタイプ別割合や南米インデオと北海道アイヌが同一の祖先を持つことなどの研究成果を紹介していたが、この度はもろに日本人の起源についてのスペシャル番組を放送しだした。

 
NAの分析など思いもよらなかった頃の日本人の起源論争では、縄文時代人と弥生時代人が連続していると言う説と、弥生時代人が列島外から進入してきたと言う説がしのぎを削っていた。さらに、筆者に言わせると荒唐無稽な「縄文時代人が食生活等の変化によって弥生時代人のような骨格になった」という説が最近まで優勢であったのである。明治までの日本人は身長が低かったが、明治以降西洋文明を取り入れることによって日本人の身長は伸びた。だから、縄文時代の狩猟採集生活を脱し稲作文明を取り入れてから食生活が激変した縄文人は頭蓋骨の形まで変化したのだという説である。確かに常食とするものが変われば多少の骨格の変化は生じるかも知れない。たとえば、固いものを食べている人は顎が発達するが柔らかい食物ばかりだと顎が小さくなるかもしれない。そこまでは何とか納得できる。しかし、米を食べるようになったからと言って、いったい如何なる機序でもって彫りが浅くなったり鼻が低くなったり顔が長くなったりするのだろうか。生活習慣の変化で極短期間の間にDNA情報が変異したりはしないから、骨格の変化はある程度成長した年齢以降の人骨に見られるだけのはずで、たとえば乳児期の骨格には決して変化はないはずだが、そのあたりは如何なのであろうか。さらに、世界の他の地域でそのような例があるのであろうか。さらに、縄文弥生連続説の論者は縄文人は文化だけを受け入れたのであって、列島外からの人的流入は無いかあっても極めて僅かである、と主張する。稲作文化も金属器の文化もすべて文化だけが来たという。しかし、たとえば稲作について考えてみると、種籾だけもらって来ても決してまともに米は収穫できない。暦の知識を持って種をまく時期を知らなければならないし、田に水を引く土木技術を身につけねばならず、稲作に必要な道具の作り方も知っていなければならない。今の時代でさえ米作りのプロである農民に対して、農協や農業改良普及所の職員が指導をしているくらいで、種まきから肥料やり水田に水を入れる時期や乾燥させる時期など決して大まかな知識で出来るものではない。稲作は高等技術なのである。しかも現代の機械化農業とは違い集団的作業が不可欠であった当時では集団を指揮してまとめるノウハウも必要であったはずである。まして金属器製造など、高等技術もいいとこである。そんな技術や知識を縄文人は誰から習ったのであろうか。またそのような知識を時間を割いて教えてくれる先生がいったいどこにいたのであろうか。

 
然列島に流れ着いた大陸の人が文化を伝えたという人がいる。農民が籾種を持って漂流することなど偶然におこるものでは決してない。それとも、その当時の農民が種籾持参で船の観光旅行にでも出たというのであろうか。まして青銅器を造る職人や鉄器を製造する職人が、なんで日本に漂着しなければならないのか。仮に、言葉も通じない漂着先の野蛮人に手取り足取り新技術を教えようと言う奇特な人がいたとしても、その前に原住民に捕まって殺されるか奴隷にされるのが落ちではないのか。

 
る人は、縄文人が大陸から技術指導者を雇ったのだという。もしそうであれば縄文時代に大陸の文明国と渡り合える国家がすでに存在し、しかも技術者を厚遇できる経済力まで持っていたことになる。しかも念の入ったことに大陸の国は、稲作も知らず金属器も知らない人々が住んでいる土地を目の前に見ながら侵略もしないで新技術を教えるために人を派遣したりするほどのお人好しであった、と言うことになってしまう。

 
近聞いた説では、縄文人は相当以前から大陸や朝鮮半島と交流・交易活動をしており、その中で新たな文化を主体的に取り入れたのだという。これだと確かに可能性が皆無とは言えない。しかし稲作文化や金属器の文化を交易などを通じて知っていながらそれを取り入れなかった縄文人が、なぜある時点から急にその文化を取り入れたのかという理由がわからない。急に気が変わったのだ、とか気候変動のせいだとか、いろいろ推測は可能であろうが、説得力ある説明がほしいものだと思う。

 
れに対して、弥生人が組織的集団的に進入したのだとの考え方に立てば、稲作文化や金属器文化が急速に発達したことの説明は簡単どころか不要でさえある。そして弥生時代人の形質が、それ以前の縄文の人々と比べて大きく違っていることの説明も要らない。さらに進入してきた弥生人が縄文人を征服する過程で縄文人との混血が生じたと考えれば縄文時代人の形質を残す弥生人骨の存在もうなずける。

 
代において異民族とは決して同じ人間などではなかった。いわば動物にも等しい獲物であって、生け贄にされたり奴隷にされたりしていたことは中国の歴史を見ても明らかである。また、洋の東西を問わず近代以前の戦争では、敗れた国の人々は殺されるか奴隷にされるのが普通なのである。現代でさえ、虐殺されたり性的奴隷にされたりしていることを思えば当然すぎるほど当然のことである。筆者の推測では金属製の武器を持たず戦争のやり方もろくに知らない縄文人は殺されたり奴隷にされたりしながら北へ北へと逃れていったものと考える。しかし、アメリカ原住民が白人の持ち込んできた馬や銃を扱って白人の侵略に対抗したように、縄文人たちも次第に敵の文化を取り入れその侵略に対抗するようになっていったと思われる。

 
ノムの解読分析が容易になり、これまでの長い日本人の起源論争にようやく科学的な決着がはかられようとしている。これからは弥生人と縄文人の関係だけでなく、古代東北地方に盤踞し大和朝廷の侵略に頑強に抵抗した蝦夷と呼ばれる人々や熊襲・隼人と呼ばれた人々と縄文人との関係などについても明らかになるであろう。今からその結果が待ち遠しい筆者である。



このボタンを押すとアドレスだけが記された白紙メールが私のところに届きます。


目次に戻る

表紙に戻る